産学交流への積極的な取り組みの成果から、経済産業省の「地域未来牽引企業」、兵庫県の「ひょうごオンリーワン企業」、日本商工会議所の「はばたく中小企業300社」に立て続けに選定されている稀有なものづくり企業がたつの市にある。日本で初めて発泡スチロールを安定的に大量生産することに成功した「龍野コルク工業」。脱炭素が叫ばれる中、どのように生き残りを図っていくのか、片岡孝次社長に考えを聞いた。
――社名の”コルク”の由来は。
もともとコルクの製品を作っていたため。私の祖父が1951年から神戸市と旧龍野市で工場を構え、炭化コルクで氷冷蔵庫の断熱用ボードやサンダルのソール材などを作り始めた。
――発泡スチロールの生産に移るきっかけは。
コルクの原材料は樹皮。天然素材なので、気候により価格が乱高下するのがネックだった。そこで祖父から命を受けた父が大学の先輩に相談したことが大きな転機になった。その先輩は後にアジアで初めてノーベル化学賞を受賞する福井謙一先生。当時ドイツで商業ベースに乗り始めた発泡スチロールの存在を教えてもらい、1956年に商社を通じて発泡スチロールの原材料である発泡ビーズを輸入した。そして、コルクの加熱成形機を改造して発泡スチロール成形品の製造を開始。2年後に龍野市で龍野コルク工業を設立した。
――なぜ龍野市だったのか。
揖保川(いぼがわ)が軟水なので、給水管にシリカ成分のスケール(水垢)が溜まりにくいというメリットが大きい。発泡スチロールやコルクもそうだが、蒸気で加熱して水で冷やすという工程を踏むため、水を噴射するたびに金型にスケールが付着するようなら熱伝導が鈍くなっていく。そのスケールを除去するという余計な手間が不要な土地柄だった。徐々に成形品の用途が食品容器や家電製品の梱包材、ヘルメット用の衝撃吸収材などに広がっていき、1972年に龍野に生産拠点を集約した。
――B to B(企業間取引)の下請けがメインだったと見受けられるが、その後の事業環境の変化は。
家電生産の海外シフトの加速やテレビの薄型化による梱包材の需要減に加え、人々の環境意識の高まりで、発泡スチロールの国内出荷量は1995年の23.7万トンをピークに下降の一途。どれだけがんばっても光が差してこないという状況に陥った。