レコ大、紅白、ベストテン…沢田研二の全盛期を支えたマネージャーが語る、昭和歌謡黄金期ジュリー秘話 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

レコ大、紅白、ベストテン…沢田研二の全盛期を支えたマネージャーが語る、昭和歌謡黄金期ジュリー秘話

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 昭和の芸能界、歌謡界の頂点に上り詰めたスターのそばには、いつも実力と情熱を持ったマネージャーがいました……。その1人が、沢田研二さんの全盛期を支えた、森本精人(もりもと・よしひと)さんです。

 このたび、ラジオ番組の公開収録にゲスト出演した渡辺プロダクションの名物マネージャー(現、株式会社メリーゴーランド会長)は、中将タカノリ(シンガーソングライター・音楽評論家)、橋本菜津美(シンガーソングライター・TikToker)とともに、濃密な”ジュリートーク”を展開しました。

(※ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』2023年9月3日放送回より。公開収録は、2023年8月21日に大阪・茶屋町のラピーヌ本店で実施)

ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』公開収録イベントより。番組パーソナリティーの中将タカノリ(左)、橋本菜津美(右)と、ゲストの森本精人さん(中央)

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【中将タカノリ(以下、中将)】 森本さんは1946年生まれ。沢田さんの2歳年上ですね。兵庫県丹波篠山市出身で早稲田大学に進学されたということですが、どうして芸能マネージャーの道に進まれたのでしょうか?

【森本精人さん(以下、森本さん)】 父親は教師でしたので、「僕も教師になるため東京で勉強したい」と言って東京へ出たんですが、マネージャーになってしまいました(笑)。『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が好きで、放送業界や芸能界に興味を持ったんですね。学生時代はニッポン放送でアルバイトしていて、実はザ・タイガースが収録に来たとき、こっそりスタジオをのぞきに行ったこともありました。

【中将】 渡辺プロに入社されたのは何年ですか?

【森本さん】 1969年です。ちょうどザ・タイガースから加橋かつみが脱退して、代わりに岸部シロー(岸部四郎)が加入するタイミングでしたが、アメリカから帰ってくる彼を迎えに羽田空港まで行ったのが初仕事。空港中がファンの女の子でびっしりで、すごい状況だったのを覚えています。

【中将】 いきなり歴史的なお仕事に関わられたんですね! 初めてマネージャーとして担当されたのはザ・ピーナッツということですが。

【森本さん】 はい。大阪万博のステージを渡辺美佐さんがプロデュースしたとき、ザ・ピーナッツを同伴したこともあります。1970年ですね。そして1971年の『君をのせて』が出た頃にジュリーの担当になりました。

【中将】 沢田さんがソロデビューするタイミングですね。

【橋本菜津美(以下「橋本」) 私はこの番組を始めるまで『君をのせて』は知らなかったんですが、『勝手にしやがれ』(1977)のようなヒット曲とはまた違う魅力を感じるしっとりした曲ですよね。

【森本さん】 シンフォニー的というか大らかで爽やかな曲ですね。

【橋本】 当時、この曲はどのように受け止められたのでしょうか?

【中将】 沢田さんはザ・タイガース解散後、萩原健一さんらと「PYG」というニューロックバンドで活動していたので、『君をのせて』はまたガラッと変わった印象だったと思います。

【森本さん】 社長(渡辺晋さん=渡辺プロダクション創業者)の指示じゃないかと思います。当時は歌手が自分で曲を選べる時代ではなかったので、スタッフ側でイメージを作ったんですね。

【中将】 PYGはグループサウンズのスターが結集したバンドだったけど、セールス的には不振。それをソロデビューで打開しようとされたんだと思いますが、『君をのせて』もオリコン・ウイークリーランキングでは23位と少し寂しい結果でした。

【森本さん】 ザ・タイガースでトップを取った自分がなんでこんな順位なのかという焦りはあったでしょうね。実際、ここからのジュリーの頑張りは目覚ましいものでした。「タイガースを越えたい」という思いがこの時期のジュリーの原動力だったんじゃないでしょうか。

 また『君をのせて』の反動か、ロックを歌いたいというこだわりも強かった。その気持ちと新たにプロデューサーになった加瀬邦彦さんのセンスが結びついて『許されない愛』(1972)や『危険なふたり』(1973)というヒット曲に結びついていったのだと思います。


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