《2》震災報道の検証 【2】実際の対応
【2】実際の対応
(1)初動体制
[第一報をどう放送したか]
地震発生時は、早朝ナマ番組『おはようラジオ朝一番』の放送中であった。
5時44分過ぎから、『朝の体操』のテープが流れていた。
それからおよそ2分後あの地震が発生した。
地震と同時に停電し放送は中断した。
この時、社内では、この番組スタッフ4人の他に、6時30分からの『谷五郎モーニング』のスタッフ5人がスタンバイしていた。
更に技術部の明け勤務者1名、守衛1名を加えて合計11名が放送活動に従事していた。
激しい揺れが収まった後、社内の損傷が甚大だったため、危険を感じたスタッフの大半は一時、社外へ避難した。
社内に残った2人のディレクターが電話で役員、社員へ非常呼集をかけるとともに、オンエアが可能な状態を確認し、避難していた他のスタッフを呼び戻して、午前6時の時報後、放送を再開した。
放送中断は13分05秒であった。
『しゃべりましょうか…はい。
AM神戸のスタジオです。 スタジオが現在、ただいまの地震で壊れております。
音声が途切れております。
情報が入り次第お伝えします』。
これが女性パーソナリティによる、放送再開の第一声であった。
当初、情報が極端に不足し、社員による電話リポートや出社した社員のスタジオレポートが情報の大半を占めた。
地震情報1号は6時10分頃放送、神戸の震度が判明したのは6時35分頃に放送した2号の時だった。
気象台はじめ各機関への電話は全て不能だった。
初期の情報源は、共同通信のFAXのみであった。
6時30分過ぎ、気象台へ向けて最初の中継車が出発したが、無線が作動せず、電話でリポートすることになった。
7時5分頃にラジオカーが出動、ようやく災害地の状況を現場から放送できるようになった。
こうして、1月17日(火)午前6時から、1月20日(金)午前3時までの連続69時間に及ぶ震災特別報道が始まった。
この後、午前8時から安否情報の放送を開始した。
以後の震災報道は、ラジオカーリポート、安否情報、生活情報を軸に展開した。
(2)電源放送場所の確保
前述したように、地震発生と同時に、送信所及び演奏所は、ともに停電した。
しかし、自家発電装置がスムーズに働き、およそ20秒間続いた揺れが収まるのと同時に搬送波が復活、局内の照明も回復し、各機器類も一部を除いて、再作動した。
地震直後のスタジオ副調整室の中は、ミキシングコンソールの電源ユニット2台と、モニターアンプ3台などを組み込んだラックがレコードプレーヤーの上に倒れたが、ケーブルの切断がなかったため、AC電源回復後、倒れたまま正常に作動した。
4つのスタジオのうち、録音用の3つは廊下側の壁の崩落の影響でガラスが押し潰されるなどの被害を受け、一部使用不能となった。
しかし、オンエアスタジオは奇跡的に殆ど損傷がなかった。
マスタールームは多くのロッカー類が倒壊したが、
重要機器類は難を免れ、正常に作動した。
この他、屋上に設置したパラボラアンテナ、淡路島の新送信所も何とか無事だったので放送再開にこぎつけることができた。
しかし、このこととは別に、社屋内の壁の崩落が激しく、柱に無数の亀裂を生じるなど危険な状態であったため、震災1週間後の1月24日、東隣の関連企業のビルに緊急避難した。
スタジオは、PAミキサー講習用の簡易スタジオを使用し、急場を凌いだ。
(3)情報連絡システム
●社員非常呼集と社員連絡
非常呼集システムは確立されていなかったが、当日の早朝番組スタッフが、一般加入電話(携帯電話も含む)による一斉呼集を行った。
10数回のリダイアルによってようやく通話できる状況で、災害発生直後、社員へ直接連絡が取れたのは全体の1割程度にとどまった。
被害の少ない社員の自宅間での連絡(例えば、北区~垂水区間)など比較的スムーズに接続できた回線もあり、今後の参考となった。
当然のことながら須磨の社屋からの発信は、地震後、時間を経るごとに状況が厳しくなっていった。
一方で、各支社(東京・大阪・姫路)との専用線は被害を受けず、連絡はスムーズに行われたが、社内設置の災害優先電話は全く機能しなかった。
●情報源の確保
各ライフライン機関、気象台、消防、警察、県、市などとの連絡は、電話回線の途絶、混乱により全くとれなかった。
兵庫県の防災用衛星通信ネットワークは県庁内のバックアップの電源装置の故障で使用不能となった。
共同通信のFAXは奇跡的に生きており、地震情報の多くは共同FAXに頼った。
地震直後の神戸市内、近隣市町の様子については、出勤途中の社員からの情報提供が放送に役立った。
●聴取者からの受信システム
聴取者からの電話受信は7台の着信専用電話を使用した。
普段は、リスナーからのリクエストや情報受信などに使う078-733-0123の回線は奇跡的に正常につながっており、安否情報、生活情報の受信に大きく役立った。
しかし、この回線がふさがると731-4321や731-4323など、会社の代表番号などへも聴取者の電話が殺到した。
●放送機器の情報収集システム
当社の放送設備は淡路島及び豊岡地区に重要施設があり、無線ないし有線回線(NTT専用線)で、機器の運転状況を監視している。
幸い地震による被害はなく、正常に機能した。
●連絡無線・放送番組中継無線システム
当社の場合、連絡無線としてVHF帯の1波、中継用としてUHF帯の1波の割り当てを受けているが、3ヶ所の受信施設のうち、2ヶ所はダメージを受けたが、エリアの広い摩耶山頂受信施設が健在で、事実上問題はなかった。
●その他
パソコン通信を通じての、震災情報の入手を行い、大変有効であった。
一部アマチュア無線を愛好している社員間で、アマチュア無線による情報収集を行い、大きな効果をあげた。
(4)実際の初動対応の総括
●全体マニュアルがなかったため、当然初動マニュアルもない。
まさに手さぐり状態であった。
しかも社屋及びスタジオなどが大きな被害を受け、余震で更に崩壊が進むという危険な状態の中で、11人のスタッフの冷静な判断と沈着な行動が、一旦中断した放送再開とラジオカーによる取材活動のスタートなど、初動に大きく貢献した。
まず、役員・社員への非常呼集にいち早く着手したこと。
地震直後、停電・停波のあと、放送再開に向けて、波が出ていることの確認
作業に取り組み、午前6時から放送再開にこぎつけたこと。
更にマニュアルもなく、情報も入らない状況ながら社員への情報提供の呼びかけ、徒歩による近辺への取材など、可能な限りの手を尽くして初期の放送を支えたこと、などである。
他局が地震後、停電状態もなかったのに立ち上がりにもたついたのと比べて、わが社の場合は最悪の状態でありながら初動に成功したのは、在社スタッフの適切な判断に負うところが大きい。
あと1時間、発生が早ければ、社内のスタッフは泊まり勤務の技術スタッフが1名だけで、初動は大幅に遅れていたと思われる。
●緊急呼び出しにより、車や徒歩で出社した社員を中心に、17日正午現在には約40名のスタッフが放送活動に参加している。
これは社の所在地が神戸市の西部にあり、社員の住所が被害の少なかった北区、西区、垂水区以西に多くあったことによる。
●一方、特に被害のひどかった神戸市中心部、東部、芦屋、西宮、宝塚などの地域の社員との連絡は難航した。
当然のこととして、災害特別報道体制を組む上で、人員配置をあらかじめ読むことができなかった。
その結果、出社できたものから配置につくという緊急体制をとる以外方法がなかった。
●外部からの情報としては、初期の段階では、共同FAXが頼りであったが、神戸発のニュースが少なく、内容的には決して満足できるものではなかった。
●各防災機関、行政、ライフライン機関などとの連絡が初期は全くとれず、情報入手が不可能な状態が続いた。
災害時こそ必要な連絡手段・情報提供の取り決めが全くなかったからである。
従って、当初必要な地震・余震情報、ライフライン、火災、交通などの情報は、的確に放送できなかった。
こうした情報途絶の段階では、社員による見聞データが初期のレスキュー報道には欠かせないものであった。
●今回、AM神戸は、社屋・スタジオに大きな被害を受けた。
幸い、放送の生命線だけは確保出来ていたため、放送を継続出来たが、電波が止まる停波という最悪の状態も十分考えられたことであった。
- 《2》震災報道の検証 【3-A】放送体制について
- 《2》震災報道の検証 【2】実際の対応
- 《2》震災報道の検証 【1】災害への対応体制について (震災前)