事故から15年を前にJR西日本から説明を受けた時の、率直な気持ちは…
「本来は被害者の家族として口を挟むことではないのかも知れないが、少し拙速な印象を受けた。一つひとつステップを踏みながらやるべきだったと思う。祈りの杜の整備もJR西日本が十分に時間をかけて遺族や負傷者に説明をした経緯もあり、プロセスを大事にしてほしい。いろんな場でいろんな意見を聞くことで『納得感』を持って事故車両のあり方を考える、そうした時間が必要」
1985年8月12日、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落、520名の尊い命が奪われた日航ジャンボ機墜落事故。それから20年後にJR福知山線脱線事故は起きた。三井さんにとって日航機事故の遺族でつくる「8.12連絡会」事務局長・美谷島邦子さんとの出会いも大きな転機となる。
「かつて『負の遺産』を視察するために日本航空の安全啓発センター、全日空の安全研修センターなどへ行ったことがあり、その経験から事故に関するものの保存の必要性、重要性は痛感した」
事故を起こした機体の一部を目の当たりにした。どう心に響いたのか。
「直接の被害者ではない立場で申し上げるならば、客観的に事故を伝えていくときに 100の話よりも1つの証拠(事故機)が如実に物語る。遺族が持ち寄った遺品の数々……手書きのメモ、フレームが曲がったメガネ、針が止まったままの時計など、もう2度とこのような悲惨な事故を起こしてはならないと強く訴えかけてくる」
JR西日本が一般公開しない点についてはどうか。より多くの人に事故の重大性を伝えることが必要なのではないか。
「見学申し込みをしたうえで見学が可能な、ある程度の公開性が必要かと思う。やはり日航機の安全啓発センターを訪れたことで、事故そのものを知ることがいかに重要かを思い知った。遺族の方々にとっても、逆に事故を伝えるという意味では非常に大切だと思う」
鉄道や航空での大事故では保存のあり方について遺族らの間で意見が分かれ結論が出るまで時間がかかる。
日航ジャンボ機墜落事故では、羽田空港の安全啓発センターで機体の残骸や部品などを公開するまで21年かかった。