太平洋戦争中、兵庫県加西市の鶉野飛行場で訓練した姫路海軍航空隊が練習機に使い、後に特攻機となった九七式艦上攻撃機の実物大模型を、加西市が製作する。すでに公開されている旧日本海軍の戦闘機「紫電改」の実物大模型とともに2022年春、鶉野飛行場跡に完成予定の地域活性化拠点施設に展示する。
「九七式」の呼称は、戦闘機に正式採用された1937(昭和12)年が、皇紀2597年に当たることに由来する。郷土戦史研究家の上谷昭夫さん(81)=兵庫県高砂市=によると、姫路海軍航空隊が開設された1週間後の1943年10月8日、徳島海軍航空隊から九七式艦上攻撃機20機が鶉野飛行場に飛来した。
航空母艦から魚雷や爆弾を積んで出撃する同機は操縦員、偵察員、電信員の3人乗り。訓練では一番前の席に操縦する生徒、真ん中に教官、最後部は次に操縦練習する生徒が座った。魚雷を命中させるには、機体を水平にすることが何より求められた。練習機は鶉野から瀬戸内海まで飛び、海上に浮かぶ島や漁船を敵の軍艦に見立て、水平に飛行する訓練を重ねたという。
米軍の沖縄本島上陸が近づく1945年3月23日、姫路海軍航空隊で編成された特攻隊「白鷺隊」が九七式艦上攻撃機で宇佐海軍航空隊(大分県)に向けて飛び立った。宇佐で待機後、4月から5月にかけて串良基地(鹿児島県鹿屋市)から沖縄近海に出撃した白鷺隊の21機63人が帰らぬ人となった。
今も当時のまま残る1200メートルのコンクリート製滑走路跡脇に立つ平和祈念の碑には、特攻で亡くなった白鷺隊63人と訓練中の事故で亡くなった5人、鶉野飛行場に隣接する組立工場でつくられた紫電、紫電改のテスト飛行の事故で亡くなった2人の名前が刻まれている。
上谷さんは「鶉野飛行場へ最初に来たのは旅客機のパイロットを目指した逓信省航空機乗員養成所の青年たち。次は予科練の若者、その後が大学の途中で海軍を志願した学生だった。厳しく、難しい訓練を受けていたので生き残った人たちは戦後、旅客機の優秀なパイロットとなった」と話す。
九七式艦上攻撃機の実物大模型は全長約10メートル、全幅約15.5メートル。全長約9.4メートル、全幅約12メートルの紫電改(1人乗り)よりも一回り大きい。製作費は約2000万円。加西市が市議会9月定例会に提出していた製作のための一般会計補正予算案が可決された。