父は誓った「将太と一緒に事件と、犯人と戦う」~神戸市北区・男子高校生殺害事件から10年~ | ラジトピ ラジオ関西トピックス

父は誓った「将太と一緒に事件と、犯人と戦う」~神戸市北区・男子高校生殺害事件から10年~

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 2010年10月4日の夜、将太さんの自宅からほど近い神戸市北区筑紫が丘の住宅街の路上。「あの人、気持ち悪いわ」不安そうに言う知人の女子生徒に、将太さんは「ほんまやな」と答えた。自動販売機の横に座っていた2人は、道路の向かい側にある車止めのポールに座り、自分たちをじっと睨む男の姿を見た。その直後、男が小型ナイフを持ち無言で近づいてきた。

「逃げろ!」。将太さんは叫んだ。女子生徒はいったんその場から離れた。数分後、女子生徒が戻ると、将太さんは北へ約70メートル離れた交差点で血まみれで倒れていた。捜査関係者によると、遺体の状況などから将太さんは座った状態で首を刺され、その後、頭部にかけて刺されたとみられるという。

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 事件が世間に与えた衝撃は大きかった。将太さんの名前や写真がまたたく間にメディアで報じられた。敏さんは、ある窓口でフルネームが呼ばれたときもドキッとするぐらい、敏感になっていた。悲しみに明け暮れる敏さんら遺族は、夏休み中に茶髪にしていた将太さんを不良扱いしたインターネットでの中傷にも苦しめられた。「私はね、事実と違う憶測でインターネットに書き込まれた将太に対するコメントが許せなくて、すべてプリントアウトして残しているんです」と憤る。同時に、事件解決の糸口が潜むかも知れないとの思いから、いまでも時間があるときには掲示板の書き込みには目を通している。

 将太さんは友人にも恵まれ、事件直後は現場に花やペットボトルの飲み物が数多く供えられたが、心ない人から「いったい誰が掃除をするんだ」と敏さんのもとに苦情が寄せられたこともあった。確かに誰かが片づけをしなければならないのはわかっている。ご近所に迷惑を掛けるわけにはいかない。しばらくの間は正子さんと2人で毎晩、お供えを片付けていたという。

 阪神・淡路大震災のあと、1990年代には神戸市北区に多くの人が市街地から移り住んだ。その前から宅地造成が進んでいた住宅街。敏さんたち家族も大阪から引っ越してきた。「このあたりも風景がずいぶん変わりました。大きな防犯灯が立ってね」夜になると人影もなく、事件までは街灯の明るさも乏しかった。事件後、現場のすぐ南側に防犯灯が設置されるなど、安全対策は進んだ。

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『無念を晴らしたい』

 事件当時の捜査主任がつぶやいた。毎年10月4日には将太さんの霊前に線香を手向けに行く。また別の捜査員は事件現場の方向へ手を合わせ、犯人検挙を誓う。兵庫県警はのべ3万人を超える捜査員を投入、現在も捜査本部は26人態勢で聞き込みや情報収集にあたる。凶器の小型ナイフは事件から6日後、現場近くの側溝で見つかった。近隣住民が発見、神戸北署捜査本部に連絡が入った。将太さんが17歳になる誕生日、10月10日と重なる。ナイフの刃についた血痕のDNA型は将太さんのものと一致した。しかし柄の部分の樹脂からは指紋らしきものは検出されなかったとされている。凶器発見の前日、神戸市内ではほぼ終日にわたり雨が降っている。棄てられた刃物が雨ざらしになった影響で指紋が検出できなかったのか、明確な因果関係はつかめていない。もっと早く凶器が見つかっていれば……このあたりから捜査が行き詰まる。そして10年。捜査主任も代替わりしてゆく。しかし犯人検挙への強い思いは変わらない。「これや!という情報はうねりのように飛び込んで来る、でもなかなか核心に近づけない。そこが本当にもどかしい」緻密な捜査は続く。

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