兵庫県西宮市の西宮神社で、毎年正月に行われる「十日えびす」の開門神事。大勢の健脚自慢が「福男」を目指して表大門の開門とともに神殿一番乗りを目指す「走り参り」は、江戸時代から始まったとされる。当時は「門開け行事」などと呼ばれ、朱色の門の前は、毎年大勢の参拝客でにぎわってきたが、その数がわずか十数人という年があった。
西宮神社には、神主たちが江戸時代の元禄七年(1694)から代々書きつづってきた社務日記がある。西宮神社文化研究所がその全文翻刻と出版作業を続けており、2019年にその成果の一つとして『えびすさま よもやま史話 「西宮神社御社用日記を読む」』(神戸新聞総合出版センター)が出版された。
その第5章。「西宮神社の境内と賑わい」に、参拝者の数に異変があった年の記録が記されている。その一つとして紹介されているのが慶応4年。1868年1月の「十日えびす」の記録だ。
日記にはこうある。「時節柄ゆえ開門六つ時頃(6時)に相成り候、参詣人十四、五人ばかりに候」。開門前の大門にわずか十数人しかいない。「これもこのご時世ではしかたがない」という神主の感想だ。
「時節柄」とは、この年の正月3日に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」のことを指す。前の年、第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、徳川幕府による時代が終わりを告げた。しかし、あくまで討幕を目指す薩摩・長州両藩との間に緊張が高まり、ついに京都の南で戦端が切られた。新政府軍が掲げた錦の御旗に、旧幕府軍の士気は落ち、大坂城に逃げ込んだ徳川慶喜は、船で江戸に逃げ帰った。その後も大坂では混乱が続き、大坂城内で火災が発生、本丸、二の丸などを焼き尽くしたとされる。
「西宮神社があった西宮町は交通の要衝で、各地の情報が集まりました。神主たちの社務日記にも、もたらされた情報が詳しく書き記されています」と、同文化研究所の戸田靖久主任研究員。そのくだりを「西宮神社の幕末」の項で詳しく紹介している。
正月元日は快晴で、多くの参詣者が神社に訪れた。「中には長州藩(山口)、大洲藩(愛媛)、小浜藩(福井)の藩士も見られた。長州藩はいうまでもなく、大洲藩も新政府側に属し、西宮に藩兵を進駐していた。……一方、小浜藩は幕府によって西宮守護を命じられていた。つまり西宮は呉越同舟の様相を呈していたのである」
ところが、新政府軍と旧幕府軍の間に戦端が切られた3日に正月気分は一変する。伏見の奉行所などの火災や、薩摩藩兵が旧幕府軍に奪われぬよう自ら放火した大坂蔵屋敷のことが書き留められている。
◆えびすさま よもやま史話 「西宮神社御社用日記」を読む
西宮神社文化研究所・編
(神戸新聞総合出版センター)
https://kobe-yomitai.jp/book/983/
◆えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト
https://nishinomiya-ebisu.com/