東山さんは、小学生のころから当たり前のように震災に関する授業がカリキュラムに組み込まれていることと、神戸の復興と再生を願う歌「しあわせ運べるように」(作詞・作曲 臼井真さん/2021年には神戸市第2市歌に)を今も空で歌えることを、神戸で生まれ育った証(あかし)だと話す。
通っていた小学校(2021年3月末に閉校した神戸市立本多聞小学校)に残るひび割れや震災に関する教科書を読むたびに、漠然と恐怖を感じていた。 しかし、「震災」という言葉や、周りの大人たちの震災への受け止めが、身近なものになりすぎて、日常生活に溶け込んでしまい、かえって実感がなかったような気がする、と振り返る。
震災の犠牲者の鎮魂と被災地の復興を祈る「ルミナリエ」も、生まれた時にはすでにあった。鎮魂と復興のために…本来の意味は聞かされていても、いつの間にか忘れていたのかも知れない。
しかし、そうした思いを覆す出来事に遭遇する。2011年3月11日の東日本大震災。当時中学2年だった東山さんはその日、3年生の卒業式にピアノ伴奏者として参列していた。式を終えて帰宅すると、テレビニュースの画面いっぱいに濁流が流れていたことを忘れない。濁流は川ではなく、かつての街だったことを理解するまでに時間がかかった。街が、人が、一瞬のうちにして消えていく様子がリアルタイムで報道され、そのときに初めて、自然の脅威を実感させられた。
■初めて目の当たりにした災害
震災の恐ろしさを理解できたのは、この時だったのかも知れないと振り返る。そして、その後の報道に触れて、過酷な環境のもとで懸命に生きる人、復興を願い今もなお力を尽くす人に尊さを覚え、 離れ離れになり消息がわからなくなった家族や友人の安否を気遣う人の姿に、「きっと阪神・淡路大震災のときも、家族や学校の先生、震災の被害に遭われたすべての人が、助け合って支え合って今まで生きてきたのだ」と思うようになった。映像を通じてとはいえ、客観的に災害を目の当たりにしたことや、物心がついた年代だったことも影響したかも知れない。ただ、この頃から「人に寄り添いたい」と思うようになったのは確かだった。