乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は4月25日、17年を迎える。この事故で、当時大学生だった次女が重傷を負った三井ハルコさん(兵庫県川西市)がラジオ関西の取材に「伝える、語るさりげなさ」を語った。
三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は、事故から約2か月経った2005年6月、思いを話し、共有する「語りあい、分かちあいのつどい」をスタートさせた。
そして事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため、2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。また負傷者やその家族らの「空色の会」も生まれた。メンバーは毎年、事故を伝える”空色の栞”を作り、安心・安全への発信を続ける。
事故後10年を経過したころから、負傷者とその家族から、それぞれ「折り合いを付けて」生きて行くという言葉をよく耳にする。この「折り合い」とは、妥協ではなく、納得が行く生き方を模索して、そこを目指していると解せる。三井さんが感じているのは、次女自身が「折り合いをつけて」親元を離れ自立、自分の足で歩く、というスタンスを大事にしていることだ。
■ブレない仲間たち
「空色の会」のメンバーも、17年という年月、等しく齢(よわい)を重ねる中、それぞれのペースで希望を失わずに歩み続けている。しかし、もう1本の軸があり、1つのグループとして原点は同じで、この事故を忘れてもらいたくない、二度と起きないようにするために何を訴えかけていくのか、気になることはメンバーで声を上げて行こう、という姿勢は変わらないという。決して一枚岩だとか、仰々しいものではない。ブレない、そこに尽きる。1人ではできないが、みんなで考え合って17年が過ぎた。
負傷者は、襲ってくる痛みや後遺症と向き合いながら、生きて行かなければならない。「何とかしよう。ただ手をこまねくだけではいけない」。限られた条件で何ができるのか、三井さんはいつもこう考えてきた。代替医療について知識を深めたり、継続的な心のケアはどうあるべきかを考える場を早くから取り入れてきた。
こうした中、新型コロナウイルスの猛威が日常を襲う。人と人との接触を善しとしない世間の動きの中、場所を変えたりウェブ形式にするなどの制約はあったが、決して会合自体を取り止めることはなかった。かといって強制参加や、無理な企画を押し通そうとたわけではない。この時、「オンラインではできないこと・オンラインでもできること」という言葉が三井さんの胸のうちに生まれた。