『寛永行幸四百年祭』“二条城行幸図屏風” 公開 菊と葵の融和…東福門院にもスポット 泉屋博古館

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 ファッションにも注目したい。描かれた人々の小袖の模様はどれ一つ同じものはなく、絶妙なバランスで赤、白、黄、緑、黒などの色を染め分けている。
 刺繍や金箔・銀箔、鹿の子染を施し、金襴をはじめ異国伝来の天鵞絨(てんがじゅう・ビロード)や更紗(さらさ)という、当時の最新ファッションを着飾る女性の姿も美しい。

 しかしこの大作、作者はわかっていない。幕府方の有力者が依頼した可能性が高く、巧みな描写力と鮮やかな彩りから一流絵師の手によると考えられる。

 実方部長は、「屏風は、見れば見るほど発見がある“情報の宝庫”。制作背景についての研究も始まったばかり。各界の専門家の分析はこれから進む」と話す。
 今回、ガラス越しでは確認できない屏風の細部を高精細画像でも紹介する。

後水尾天皇の鳳輦 古来より天皇の行幸に用いられた、屋根の上に鳳凰の像を飾る伝統的な輿(こし)
画像中央の後ろ姿の大名は伊達政宗か 本来は将軍クラスに限られる特別な模様の馬の飾りを使用していたと解釈される(諸説あり)

 特別展では、寛永行幸の実現に大きな役割を果たした徳川和子(東福門院)にも光を当てる。

「東福門院像」(光雲寺蔵・京都市指定文化財)1827(安政7年)

 和子は14歳で後水尾天皇のもとへ入内(じゅだい)、江戸幕府が圧倒的な武力と財力を背景に、朝廷に対する統制を強めた“政略結婚”とされた。
 当初、「将軍の娘」として一部で反感を抱かれた東福門院だが、温順な人柄と心配りで天皇との愛情を深め、周囲の信頼を得るようになったという。

 このほか東福門院が立后の際に着用し、現存最古とされる十二単「東福門院御料 唐衣表着裳装束」や、クリエイターとして親しい人たちに贈った押絵も。美しい端切れを貼り合わせて描く押絵は、後に宮廷の女性から広がり、羽子板などの押絵や雛人形のルーツになったとされている。


◆泉屋博古館


◆泉屋博古館 オフィシャルサイト
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◆寛永行幸四百年祭 オフィシャルサイト
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