羽柴秀吉による「兵糧攻め」で知られる三木合戦で、飢えに苦しむ城兵や領民の命を救うことを条件に自刃した三木城主・別所長治の遺徳をしのぶ祥月命日法要が1月17日、長治の首塚がある雲龍寺(兵庫県三木市上の丸町)で営まれた。
主催する別所公奉賛会名誉会長の仲田一彦・三木市長は「長治公が命を懸けて民の暮らしを守られたように、新型コロナウイルス感染症の未曾有の危機を乗り越えて市民が誇りを持って暮らせるまちを目指し、まい進することを誓う」と決意を述べた。
東播磨の8郡24万石を治めた別所氏と、織田信長の毛利征伐の命を受けた秀吉を総大将とする織田軍の戦いは1年10か月におよんだ。天正8(1580)年1月17日、敗れた長治が切腹して三木城は開城。今年が442回忌に当たる。
法要の後は雲龍寺で、うどんを食べる習わしがある。しかし、今年はコロナ禍のため中止になり、参列者は容器に入ったスープ付きうどんを持ち帰った。
なぜ、うどんなのか。法要次第の裏面には、次のような「うどん会」の由来が載っている。
「自然の要害を巧みに利用した三木城は堅固な上に城兵の士気も高く、難攻不落であると悟った秀吉は力攻めをあきらめ、兵糧攻めに切り替えた。『三木の干し殺し』の始まりである。この奇策に耐えた城兵たちは牛馬や草の根はもちろんのこと、壁土に塗り込められた、わらをも食したといわれる。うどん会は当時の惨状をしのび、領民を思う公の遺志を後世に語り継ぐため、わらに見立てたうどんを食べる伝統行事である」
領民を思う公の遺志。三木城本丸跡には「今はただ うらみもあらじ諸人(もろびと)の いのちにかはる我身とおもへば」と刻まれた長治公辞世の歌碑が立つ。