阪神・淡路大震災から30年となった1月17日、当時を知るラジオパーソナリティーが、ラジオ関西の震災特別番組で、発災したときの様子を振り返るとともに、震災報道への思いを述べました。
被災した神戸・須磨のラジオ関西の旧社屋から、情報を発信し続けていたのは、ラジオパーソナリティーの谷五郎さん。あの日の午前5時46分、当時ラジオ関西があった須磨のスタジオの状況を、次のように語ります。
「僕はそのときは、朝6時半から『ま~るい地球と……谷五郎モーニング』という生放送があるので、だいたい1時間前にスタンバイしているが、毎日スタジオに来て新聞各紙に目を通すというのがルーティンであり、ちょうど新聞を机の上に広げて、立って読んでいた。そのときに、ドーンと(地震が)来て、最初は『トラックが突っ込んできたのかな』と思った」
「公営住宅のビルの2階部分がラジオ関西のスタジオになっていたんですが、とにかく最初に机の下にもぐりこんで、すぐ、『地震やな』とわかった。最初は横揺れやったんだけど、四つん這いになっていてもこけそうになるくらい揺れた。そのあと、ドーンと縦揺れも入って、気が付いたら、20~30秒くらいだったと思うが、コンクリートの壁が落ちて、土ぼこりもして、非常ベルの音、そしてガス(漏れ)のにおい……。ガスのにおいがみんな一番ビビってたみたい。(火が出て)ボーンといったらもう終わりやから」
「その前の放送を担当していた人も、スタジオから出てきて、とにかく怖いからいったん外に出ようと、社屋から出たんですが、放送はそのときにはできないと思ったので。ところが、みんな必死になって、『これ、放送できるんちゃうか』となって、外に出ていた僕らも呼び戻されて。5時46分から停波し、14分の間、放送が止まったのですが、ちょうど6時の時報とともに、放送が再開した」
6時の時報のあと、谷さんの番組でアシスタントを担当していた藤原正美さん(フリーアナウンサー)の「……しゃべりましょうか」という声で再開した、ラジオのオンエア。谷さんは、「本当に電波が乗っているかどうかがわからなくて、そのあとBGMの音楽をかけたら、モニターが当時落ちていたが、『聴こえています』というのがわかったことで、『これ、放送できているんや』という現状だった」と、当時の切迫した様子を赤裸々に話していました。
そこから、ラジオ関西は、総務も含めて社員たちが街に出て、電話レポートなどを敢行。谷さんはラジオパーソナリティーとしてマイクの前から安否情報などを届けただけでなく、時には市民からの報告を電話で受ける受け手の1人として受話器をとって対応したそう。そこで、ラジオとリスナーの信頼感を実感したといいます。
「リスナーさん自らが情報源となって、ラジオ関西をとにかく中継点として、『そこにいったらなんとかなるわ』と。(震災直後)連絡がとれなかったという状況もあるけど、それだけ、そのときはラジオ関西が信頼されていたのかなと。いま思い返しても、それはうれしいことだった」