明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫丹波の歴史、日本遺産、文化施設、食文化、地域活性に活動される方を多目的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。5月14日の放送では、『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」~荻野直正と城郭』(神戸新聞総合出版センター)の著者・高橋成計さんが電話出演した4回シリーズの締めくくりとして、いよいよ「赤井(荻野)直正と明智光秀の戦い」がテーマに。高橋さんと、「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授、久保直子さんがトークを展開しました。(構成:久保直子さん)
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【田辺眞人(以下、田辺)】 明智光秀(織田信長の勢力)が最初に丹波に入って来たのは何年ですか?
【高橋成計さん(以下、高橋)】 天正3(1575)年10月です。赤井氏は元亀1(1570)年に信長から氷上、何鹿、天田の三郡の支配を許されます。ところが直正は織田氏を嫌い、武田氏や一向宗と手を結ぼうとしていました。おそらく山中鹿之介の使僧などに同調したのでしょう。太田垣と山名が信長に助けを乞い、天正3年10月に(信長)は光秀を丹波に使わします。
【田辺】 天正3(1575)年は大きな転換期だと思いますね。信長にしてみれば中部地方から近畿へ行きたくても背中の武田が怖かった。ところが、その武田が『長篠の戦い』により滅んでいきます。いよいよ本格的に西に進もうという時期に信長の勢力が近畿地方から山陰道を通り丹波へ入ります。この前線司令官が明智光秀だったわけですね。
【高橋】 織田氏(信長)にとっては毛利への第一歩だったと思います。ここで(織田方が)負けたのは大きな痛手だったと思います。
【田辺】 「負けた!」のですが、(光秀方は)ものすごくユニークな戦略を取りました。どこが戦場でしたか?
【高橋】 黒井城です。“明智光秀が黒井城を囲もうとしている”という知らせが(直正に)入り、すぐに(竹田城から)黒井城に戻って戦いに臨むのです。そして黒井城で天正3年10月の終わり頃から天正4年1月15日にかけて(波多野秀治が明智方を裏切るまで)の約2か月の間、光秀に黒井城を囲まれ、直正は籠城するんです。
【田辺】 この直前、直正は但馬まで進撃し、竹田城にいたのですね。
高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」 ~荻野直正と城郭~』(神戸新聞総合出版センター)
定価 本体2,300円+税
発行日 2020年2月
ページ 240ページ
ISBN 978-4-34-301061-2
神戸新聞総合出版センター
https://kobe-yomitai.jp/book/1007/
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年5⽉14⽇放送回音声