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吉田住職によると、元三大師にはこんなエピソードがあるという。文豪・谷崎潤一郎(1886~1965)が代表作のひとつ「少将滋幹の母」を執筆するにあたって仏教の教えを乞うなどした天台宗京都五箇室門跡の1つ、曼殊院(京都市左京区)の門主から依頼され書いた随筆風の「乳野物語(ちのものがたり)~元三大師の母」という作品がある。
元三大師の母・月子姫が老齢になり、元三大師の近くに住みたいと願ったことから、天暦6(952)年に比叡山麓に安養院という庵を建て、こっそり母に逢いに来ていたという伝説を書いたものだ。
その際、谷崎が元三大師について調べていると、元三大師が容姿端麗であるがゆえに宮中に出向くと女官に酒宴の場に招き入れられるのを嫌い、鬼の姿に化して(「鬼大師」として)追い払ったいわれがあることを知る。美と妖艶な世界を追求する耽美派の第一人者ともいえる谷崎からすれば、自分の理想とする生きざまや振る舞いとは真逆の人物であり、むしろそこに惹かれ興味を抱いたとされている。乳野物語の発表は昭和26(1956)年。しかしこのころから体調を崩し始めたのもあってか、「いつか生誕の地へ」という谷崎の思いは果たせなかった。
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比叡山麓に伝わる子守唄に「山の坊さん何食うてくらす 湯葉の付焼定心房」という一節がある。
定心房(じょうじんぼう)とは大根の漬物のことで、元三大師がこれを発明したことから、元三大師の庵の名を取ったという。比叡山延暦寺ではこれを湯葉の付け焼きとともに食する。ほかに「おみくじ」の発案者としても知られる。角大師のお札を都に配り、母を慕い庵に通う。宮中で女性の誘いにも乗らない。比叡山の再興と、民衆に寄り添うその情愛が、親しまれやすい「おみくじ」という文化を生み出したのではないかとも推察される。1000年あまり前の1月3日、元三大師・良源が没した。いま世界はwithコロナの渦中、新しい生活様式への変容に向け、大きく舵を切る。政治の決断や経済の再生が求められるなか大切なのは誰に寄り添うことなのか、「角大師(つのだいし)」が問いかけるものを考えたい。