淡路の名前の由来をはじめ、歴史を紐解いても、かつて淡路は阿波藩だったなど、淡路と徳島のつながりは深い。徳島藩を収めていたのは蜂須賀家、その筆頭家老を務めたのが淡路・洲本の稲田家だった。幕末から明治にかけての激動の時代、徳島藩では稲田家が勤王派(倒幕派)として行動し、独立して淡路藩を作りたいという気持ちを持っていた。このような動きをよしと思わない徳島の侍たちが、廃藩置県の前年にあたる1870年、5月13日の未明に稲田氏の公邸や稲田家家臣の屋敷などを襲撃した。稲田家側の18人の命が奪われ20人が重軽傷を負った。この出来事を稲田騒動(庚午事変)という。
「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する歴史家の田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授は「このような出来事があったから、淡路と徳島を一緒にしていたら今後ももめるに違いない。徳島から淡路を分離し、じゃ、どこに入れようかとなり、北の兵庫に合流させたといういきさつがある」と解説する。
取材を行ったラジオパーソナリティーの谷五郎さんと冨島隆則ディレクターは、「橋の存在によって交流に変化が生まれた。南あわじの人は徳島を向き、徳島の人は神戸を見ている。そして淡路島の中でも、北と南で違うと感じた」という。もともと政治・文化の関係が深い淡路と徳島。人形浄瑠璃などの交流もあった。そのつながりは現在も続き、淡路に「阿波踊り」の文化が残る地域がある。一方で言葉が違うとの声も。語尾に、淡路は「~だぁ」、徳島は「~けん」がつく。ここに境界線があった。
※この記事は2020年12月27日放送、ラジオ関西制作『BORDER~ヒョーゴスラビアにおける県境とは』をもとに、再構成しました。
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