――では当時、届られた言葉で、一番うれしかったものはありますか?
震災があった日は夜通しマイクに向かっていたんですが、自分がしゃべったことは覚えていませんし……。励まされてうれしかった言葉というよりも、リスナーの言葉で「それじゃラジオ聴けなくなるよ」というような、私自身に対するクレームや批判というのが(印象に残っている)……。今やっている番組にもすごく来るんですが、それを私は絶対に放送するようにしているんです。そうした批判や中傷などを、私は『応援』だと思っていますので。
震災当時も「プロなら泣くな」とか、そういったお手紙も放送しました。どちらかというと、「大和田さんの一言で救われたよ、ありがとう」というより、「大和田さんはいつも安全なところで情報を発信しているが、もっと現場に行けよ、現場はもっと酷いんだよ、あなたには分からないじゃないか、知ったかぶりするな、現場を知ってからモノ言えよ』と手紙やFAXをいただいくこともありました。
なので震災があった年の4月から毎週、丸1日かけて沿岸部を周るようになりました。今も続けているんですが、続けてきて良かったなと思います。当時は現場に行って、名刺を出したら投げられて「お前なんかに話すことはないから帰れ」と言われたこともあります。その方は家族4人を津波で亡くされて、今も3歳のお子さんとお父さんがまだ見つかっていないんですよね。私以外のマスコミ取材も全部断っていて、そこから毎週その方を訪ねて3か月目で「今日は答えてやるよ」と。そのときのインタビューは私の宝ですし、その方とは今も交流を続けています。
◆大和田さんが見据える、福島の未来
――震災があった平成から令和になった今、震災の記憶が風化することへの懸念はありますか?
今までは行政単位の復興というものが考えられていて、例えば浪江町の将来はこうしよう、住んでいる人たちが戻るためにこうしようとか、町単位で復興・復旧が語られていました。ただ、今はそういう状況ではなく、一人ひとりの思いに私たちがどういうふうに耳を傾け、発信していくかということが非常に大事な時期になってきているんじゃないかなと思いますね。
――福島の好きなところに「未来に向かって笑顔で頑張る若者たち」と回答されていますが、若者たちにどのような期待を抱いていますか?
本当に福島の若者は、前向きで元気で明るくて、うれしい限りです。私も震災直後から2000人以上の中高生に話を聞いてきました。必ず将来の夢を聴くのですが、男の子だと警察官、自衛隊、消防士、役場職員。女の子だと介護士、看護師、学校の先生……地域の復興の手助けになるような仕事をしたいというのが、中高校生の将来の夢でしたね。