照屋さんは泥まみれの女性の遺体を見た。赤ちゃんを背負い、小さな女の子を抱いたまま死んでいたという。
「いたたまれなかった。女の子が6つ年下の妹と重なってしまいましてね」
照屋さんは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で約半年、工員として神戸市内で壊滅状態となった阪神電鉄・石屋川車庫の復旧作業に携わった。大地震という自然の脅威に人間は太刀打ちできないことを思い知った。しかし人為的に起きる戦争は必ず食い止めることができると確信したという。
「空襲があった8月14日の時点では、よもや翌日に天皇陛下による玉音放送があるなんて思っていなかった。しかし政府は秘密裏に終戦への準備を進めていた。すでにポツダム宣言が突き付けられていたし、日本にはもう、敗戦という選択肢しかなかったんですよ。一部の人々(軍部の上層部)はわかっていたのかと思うと、本当に悔しい。あと1日終戦の決断が早かったら、これだけ多くの人が命を失うことはなかったと思います」
■恐るべし米軍の「フィナーレ攻撃」
照屋さんは戦後、あらゆる資料に目を通し「8月14日の空襲」を調べた。「実はね、8月14日には大阪のみならず各地で空襲があったことがわかったんですよ。米軍はこの日の空襲を『フィナーレ攻撃』と言っていたようです。日本はもう抵抗できないと米軍はわかっていた。かなり執拗な攻撃だったようです。それだけ日本は劣勢だったんでしょうね。いろんな説がありますが、広島・長崎の原爆に続いて、まさに『フィナーレ攻撃』。米軍はこれをとどめにしたかったのでしょう」
米軍資料から空襲の実態を調べる市民団体「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」や自治体の調査などによると、14日と翌15日の終戦の日にかけて、米軍機約1000機が出撃、全国10か所以上で空襲があったという。約2400人が犠牲になったとされている。
太平洋戦争末期の1945年7月26日、米英中が日本に対し、降伏を求めるポツダム宣言の文書を出したが当時の日本政府はすぐには受け入れなかった。いわゆる「黙殺」である。その間に広島・長崎への原爆投下、ソ連の宣戦布告の後、8月14日に受諾を決定。翌15日、昭和天皇の「玉音放送」が日本の敗戦を伝えた。
神戸大学文学部・河島 真准教授(日本近現代史)はこう指摘する。