蒸し暑くなってきて、今年もそうめんのおいしい季節がやってきました。今や兵庫県が全国に誇ると言えば、手延べそうめん「揖保乃糸」。「そうめんやっぱり♪」というメロディが聞こえてくると、つい「いぼのいと〜!」と口ずさんでしまう人も多いのでは? しかし実は、「揖保乃糸」という会社は存在しないということをご存知でしょうか。
今回は、そんな揖保乃糸のヒミツやそうめんの豆知識について、兵庫県手延素麵協同組合・営業部企画課・課長補佐の天川亮さんに取材。2回シリーズでお届けします。第1回は、揖保乃糸の長い歴史や、高品質を保つ仕組み、受け継がれる工夫について話を聞きました。
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――揖保乃糸はいつごろ生まれたのでしょうか?
【天川さん】 そもそも播州地方でのそうめんの興りは、今から600年以上前の室町時代と云われています。揖保郡太子町の斑鳩寺にのこる寺院日記「鵤庄引付(いかるがのしょうひきつけ)」の1418年の記述に「サウメン」の文字が見られます。
その後、江戸時代に龍野藩が生産を奨励、そうめんづくりの保護育成につとめたことから産地化が進みました。しかし、当時はまだしっかりとした組織がなく、統一した基準も設けていなかったため、品質も価格も安定したものではなかったようです。
そこで、明治5年(1872)11月、生産者が集まって品質や価格、安全を保障するために明神講(一定の目的のもとで有志が集まった組織)が設立されました。明治6年(1873)にも新組織を結成。明治7年(1874)には揖東郡、揖西郡(ともに旧播磨国の一部)の生産者を組織して開益社を創立。当時はまだ組合法が整備されておらず任意団体でしたが、実質的には協同組合と言える組織でした。
その後、同業組合準則が整備され、明治20年(1887)9月9日に認可され、現在の兵庫県手延素麺協同組合の前身である揖東西両郡素麺営業組合が設立されました。そこから何度か改組や改称を行い、昭和37年(1962)に現在の名称になりました。
――600年以上の歴史を重ねてきたのですね。今や多くの人が知る揖保乃糸ですが、「揖保乃糸」という“会社”は存在しない、というのは本当ですか?