太平洋戦争の終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。14日、惨劇から75年を迎えた。
1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。
大阪市城東区の照屋盛喜さん(87)は当時12歳。今も現場近くに住む。当時、京橋駅近くの工場に学徒動員されていた。学徒は兵器を作るのが仕事と言われ続けてきた。そして終戦前日・8月14日の空襲。とっさに防空壕に逃げ込んだが、連続する「ドカーン」という爆音、繰り返す地鳴りと揺れ。死を覚悟した。空襲警報が鳴りやみ、恐る恐る外に出た。吹き飛ばされた駅舎の柱や壁が、倒れている乗客にのしかかっている。一帯に肉片が飛び散り、土ぼこりが立ち込めるなか、生き埋めになった人たちから助けを求める叫び声が聞こえてくる。その光景を振り返るとき、柔和な照屋さんの表情が一瞬こわばる。
「これが、修羅場というものです」
空き地に掘られた穴に遺体が運び込まれ、次々に火葬されていく。照屋さんも見知らぬ兵隊に指示され、遺体を運び、トタンの板を敷いて並べていた。
「私に指示した兵隊は、あまりにも命を軽く見すぎていると憤りを覚えましたね。兵隊はあごを使って穴に放り込めという仕草だけ。黒煙とほこりが立ち込める真夏の炎天下、目の前の10センチ先も見えない。何も言わずにただただ遺体を運ぶ。誰なのかわからない、バラバラの手足も運ぶ。そこには人間の尊厳などない。遺体は荷物じゃないんです」。