~戦後75年・追憶~「終戦前日、奪われた命への伝言」 戦争語り部・照屋盛喜さん(87) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

~戦後75年・追憶~「終戦前日、奪われた命への伝言」 戦争語り部・照屋盛喜さん(87)

LINEで送る

この記事の写真を見る(14枚)

 太平洋戦争の終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。14日、惨劇から75年を迎えた。

JR京橋駅・南口
JR京橋駅・南口

 1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。

大阪砲兵工廠と大阪城
1870年(明治3年)、大阪城の敷地いっぱいに東洋一の陸軍造兵廠が立ち並んだ
大阪砲兵工廠跡・石碑(大阪市中央区大阪城)
大阪砲兵工廠跡・石碑(大阪市中央区大阪城)

 大阪市城東区の照屋盛喜さん(87)は当時12歳。今も現場近くに住む。当時、京橋駅近くの工場に学徒動員されていた。学徒は兵器を作るのが仕事と言われ続けてきた。そして終戦前日・8月14日の空襲。とっさに防空壕に逃げ込んだが、連続する「ドカーン」という爆音、繰り返す地鳴りと揺れ。死を覚悟した。空襲警報が鳴りやみ、恐る恐る外に出た。吹き飛ばされた駅舎の柱や壁が、倒れている乗客にのしかかっている。一帯に肉片が飛び散り、土ぼこりが立ち込めるなか、生き埋めになった人たちから助けを求める叫び声が聞こえてくる。その光景を振り返るとき、柔和な照屋さんの表情が一瞬こわばる。

「これが、修羅場というものです」

強烈な爆音に防空壕で死を覚悟した
当時12歳の照屋盛喜さんは防空壕で死を覚悟、そのあと凄まじい光景を目にする(大阪市城東区の自宅で)

 空き地に掘られた穴に遺体が運び込まれ、次々に火葬されていく。照屋さんも見知らぬ兵隊に指示され、遺体を運び、トタンの板を敷いて並べていた。

「私に指示した兵隊は、あまりにも命を軽く見すぎていると憤りを覚えましたね。兵隊はあごを使って穴に放り込めという仕草だけ。黒煙とほこりが立ち込める真夏の炎天下、目の前の10センチ先も見えない。何も言わずにただただ遺体を運ぶ。誰なのかわからない、バラバラの手足も運ぶ。そこには人間の尊厳などない。遺体は荷物じゃないんです」。

大阪城の南東、森ノ宮付近(画像右上が砲兵工廠、中央より右の鳥居が森ノ宮神社 照屋さん提供)
大阪城の南東、森ノ宮付近(画像・照屋盛喜さん提供 右上が砲兵工廠、中央より右の鳥居が森ノ宮神社)
LINEで送る

関連記事