姫路市香寺町の日本玩具博物館で「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」が4月11日まで開かれている。雛人形の魅力について、歴史を踏まえながら尾崎織女・学芸員に4回にわたって解説してもらう。今回は「京阪好み・江戸好み」の1回目。
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毎春、日本玩具博物館で開催される特別展「雛まつり」は、同館の500組を超える雛人形コレクションの中から、時代の移り変わりや地域の違いなどを切り口に、様々な表情の雛人形をとり出して展示し、雛まつりの多様な世界を紹介する試みです。今春は、江戸時代後期から明治時代に、江戸(東京)や京阪(関西)の町家で飾られていた40組の雛飾りを一堂に展示しています。
雛人形の起源は遠く平安時代にさかのぼりますが、3月3日の上巳(じょうし)の節供(句)に雛遊びを行ったり、雛人形や雛道具を飾ったりする風習が定着したのは江戸時代に入ってからのことです。
江戸時代前期(17世紀後半)の雛飾りは、数対の立ち雛や座り雛を毛氈の上に並べ、背後に屏風を立てた平面的な形態で、調度類も数少なく簡素かつ自由なものでした。町家の室内で思い思いに雛人形を飾って楽しむ様子が文献の絵図などからもうかがえます。
雛人形は、発達する過程において数々の様式が生まれ、のちに「寛永雛」、「元禄雛」、「享保雛」などと元号を冠して呼ばれたものや、人形師の名をもつ「次郎左衛門雛」、公家に用いられた「有職雛」などが見られましたが、主には京阪の人形師が製作を担っていました。それでは、本展の展示品を通して、江戸時代後期の雛人形の様式の移り変わりをご紹介しましょう。
●江戸時代、都市部で人気があった享保雛(きょうほうびな)
江戸時代後期に都市部で飾られた町雛のうち、よく知られているのが「享保雛」です。胡粉を重ねた面長な顔は白く、墨色で描かれた目は切れ長、少し開いた口元には古典的なほほえみが漂っています。装束は金襴や縮緬などを用い、男雛は両袖を張った姿、女雛は五衣唐衣裳(十二単) 姿で表現されています。屏風を立てて、床の間などに飾られたため、乳幼児が座っているほどの大きなサイズも作られました。このような姿の雛人形は享保年間(1716~36)ころに流行したものと後世の人々は考え、「享保雛」の名で呼びましたが、明治時代初期まで作られ続けていましたので、享保雛だからといって、享保時代の作とは限らないのです。
【公式HP】
◆「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」 学芸員によるリモート・ミュージアム・トーク
(2)あなたは「京阪好み」「江戸好み」?
(3)江戸は段飾り 京阪は御殿飾り
(4)雛道具に見る江戸と京阪の違い