CRKラジオ関西

  • radiko.jp いますぐラジオ関西を聴く

山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年8月19日(日) 08時30分

    感状山城(上)

    2018年8月14日(火) 放送 / 2018年8月19日(日) 再放送

    「中世山城」は専ら戦いの城として、おおむね地上から200メートル以上の山頂付近に築城されていました。加えて、1つの城が単体で戦うというより、付近の山城とネットワークで結んで「城塞群」を形成して敵に対処していました。たつの市新宮町の「城山城」しかり、前回まで3回にわたって取り上げた上郡町赤松の「白旗城」も、これから取り上げる相生市矢野町森の「感状山(かんじょうさん)城」と連携しておりました。

    白旗城は、海抜440メートルの高所にありましたが、感状山城は100メートル余り低い海抜305メートルで、しかも麓からは220メートルしかないため、ぎりぎり山城の部類に入る高さでした。

    この山城の名に用いられた「感状」とは、ちょっと気になる名称ですね。今風に言えば、何か良いことをした褒美に頂く「感謝状」のようなものですが、重みは全く違います。感謝状は、もらったらそれで終わりの「形式的名誉の紙きれ」にすぎませんが、「感状」は、後々に効果を発揮します。武家社会において、合戦に参加して功労のあった者に対し、上官がその戦功を賞するために発給する文書で、おおむね永続的効力が付与されています。鎌倉時代末から見られ、南北朝期から戦国時代にかけて多く存在します。つまり、この「感状」は手柄の証明となる重要書類で、恩賞として領地をもらう基準となるため、大切に保管します。

    では、なぜこの山にそんな名が付いたのでしょうか。もともと瓜生という地名だったため「瓜生城」と呼ばれていました。城が脚光を浴びたのは、赤松円心の三男・則祐がこの城に拠って、円心が立てこもる白旗城と連携して勝利したからです。戦いは、後醍醐天皇方の建武政権軍に付いていた新田義貞軍が5万の兵を率いて播磨に侵攻したことを機に始まったのですが、義貞の家臣・徳力三河守秀隆という武将が3000騎を率いて感状山城を攻め立てたものの撃退されました。則祐はこの後に感状山城を引き払って白旗城に入り、父の円心ともども義貞の猛攻を50日間耐え抜きました。そして後に室町幕府を開く足利尊氏から「感状」を贈られた事実が、由来になっています。この城は、さらにもう1つ「下原山」という名前があります。

    感状山城は、まさに赤松則祐が感状をもらって有名になりましたが、築城したのも則祐かとなると、どうもそこまでは断定できません。というのも『播磨古城記』『岡城記』などによると、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたとの説が書かれているからです。地名の「瓜生」を名乗るからには、この近辺の地侍と思われますが、詳しい素性は分かりません。

    この城の石垣の構築方法は「野面積み」で、30センチから1メートル余りまでの自然石を―見、粗雑に積み上げたような構造となっています。近世の城のような四隅を直角ではなく、緩いカーブを描く総石垣による曲輪の構えは、当初からのものではなく、後世に手を加えたもので、戦国時代に近辺を支配した宇喜多氏による改修ではないかとの説もあります。