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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年4月29日(日) 08時30分

    西播磨の山城・概観

    2018年4月24日(火) 放送 / 2018年4月29日(日) 再放送

    今回から「西播磨の山城」に入っていきますが、その前に1点、押さえておくべき大切な事柄が残っていました。山城は、古い時代から順に「古代」「中世」「近世」と大きく3つに区分できますが、真ん中の「中世山城」の終わり頃、戦国時代の後期になってきますと、「山城の存在価値」が低下しまして、城は、狭い山頂から麓の「広大な平城」に移行していきます。その際、「見落とせない変化」がありました。

    織田信長や秀吉が盛んに進めた「兵農分離」政策です。戦国時代は、主だった武将を除けば、戦いが無い平穏な時は農業に従事しておりまして、「いざ鎌倉」の号令が下れば、鍬を槍や刀に持ち替えて出陣していました。しかしこれでは、稲が実った秋の収穫期には招集が掛けられません。つまり「農繁期の戦は難しい」状況にありました。そこで考え出されたのが、農業と兵士を完全に分離させることです。

    この結果、専業となった兵士を城下に住まわせ「待機状態」にしておいて、いつでも出陣可能な「機動部隊」を編成しました。一方、戦に出なくてもよくなった農民は農業に集中させ、不要となった武器を回収しました。これは秀吉による「刀狩り」として有名ですね。こうして「山城から平城へ」という城の変化は「兵農分離」という大変革をも生みました。

    さて、いよいよ「西播磨の山城」に入ります。ここでの西播磨は、兵庫県西播磨県民局のエリアを指します。具体的には、相生、たつの、赤穂、宍粟の4つの市と、揖保郡太子町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町の3つの町です。この4市3町内にある20カ所余りの城を取り上げますが、説明する都合で「平城」の山崎、龍野、赤穂の3つの城も含めています。

    それぞれの城を誰が、いつの時代に築造したのかについては、基本データとして重要で、ぜひお伝えしたいのですが、江戸時代の近世城郭とは異なりまして、実ははっきりしないのが大半です。それでも「ゆかり」は何とか分かります。そんな推測で言えば、地域性から「赤松氏ゆかり」とされる所が圧倒しています。時代が、戦国末期から安土桃山期になると「豊臣秀吉」が絡む山城も出てきますが、大づかみに言えば、西播磨の山城のほとんどが「赤松系」と言い切っていいでしょうね。

    次いで築城された時期が「いつ」なのかも不明な場合が多いのですが、「南北朝期から室町期の誕生」と推定される所が多数を占めていまして、中には、築城がさらに鎌倉期にまでさかのぼるとおぼしき山城も5カ所ほどあります。その古い部類、と言っても山城の3つの時代区分では、いずれも「中世山城」に含まれるのですが、相生市の下土居城、大島山城、たつの市の龍野古城、室山城、太子町の石蜘蛛城などが鎌倉期以前にさかのぼるとされています。あとは、築城年代に確証が持てない所としまして、宍粟市の波賀城(戦国~織豊期?)、たつの市の祇園岳城(南北朝~室町期?)、赤穂市の茶臼山城(同?)が挙がっています。