赤松氏一族(中)
2018年5月29日(火) 放送 / 2018年6月3日(日) 再放送
西播磨の山城を語るのに「赤松氏」の歴史は欠かせません。前回は、赤松則村(円心)の長男・範資の系統について、その息子・光範が摂津国守護職を継いだところまでは良かったが、それをライバルの細川氏に奪われ、後は先が細ってしまうと話しました。
今回は、円心の次男・貞範の系統から始めましょう。貞範本人が美作国守護となったのが最高位で、後に赤松の本宗家が長男から三男に渡ってしまった不運に加えて、時の足利将軍に気に入られたのは良いのですが、極端なひいきの引き倒しが、あの「嘉吉の乱」の原因となりました。名が残るのは、いずれも不名誉な人物ばかりなのは残念です。
中でも貞範の曽孫・貞村は、6代将軍・足利義教のそば近くに仕える近習で、お気に入りのあまり、義教が赤松本宗家の所領を没収して一部を貞村に与え、加えて播磨国などの守護職まで貞村に任じるとの風聞が広がりました。これに危機感を持った赤松本宗家の当主、円心の三男・則祐の孫・満祐が将軍・義教を「諸悪の根源」と見て暗殺してしまいました。これが「嘉吉の乱」でしたね。
以上のように大変な事をしでかした、赤松家の本流を継いだ円心の三男・則祐の家系を順に見ていきましょう。則祐は、長兄・範資の没後、播磨国守護職を継ぎ、後に備前国守護職も兼任して、そのまま息子・義則が引き継いだ上、美作国守護職も兼務、さらに赤松氏では初めて侍所所司(長官の下=次官)にもなって、室町幕府内での地位を確立します。その3国の守護と侍所所司をも引き継いだのが、義則の嫡男で円心の孫・満祐でした。
こう見てくると「嘉吉の乱」は、まさに絶頂期にあった赤松家を一瞬にしてつぶしてしまったことになります。赤松氏の絶頂は、逆に室町幕府の将軍の立場からすれば、赤松氏の勢力が強くなり過ぎ、うかうかしていると将軍家の足元をすくわれかねない―との危機感を募らせても不思議ではありません。実際、赤松氏による傀儡政権の企てもありました。
第4代将軍・足利義持も行動に出ます。円心の三男・則祐の孫・満祐から播磨国を没収します。間もなく回復しますが、将軍の代が代わってからも赤松惣領家に対する嫌がらせは続きます。第6代将軍・足利義教は、同じ赤松系でも、円心の次男・貞範の曽孫・貞村を近習として重んじる一方、力を持ち過ぎていると感じた満祐の勢いを止めようと行動に移します。
まず満祐の弟・義雅の所領を没収してしまいます。次いで、曽祖父・円心時代から続く播磨国守護職まで解任するとの風評に危機感を抱いた満祐が、将軍・足利義教を暗殺します。満祐ら赤松氏一党は、たつの市新宮町の城山城にこもり、自害します。息子の教康はいったん城から逃れ、伊勢国司・北畠教具を頼りますが、結局殺されてしまい、赤松本宗家はいったん断絶しました。しかし、赤松家はこれでは終わりません。