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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年6月10日(日) 08時30分

    赤松氏一族(下)

    2018年6月5日(火) 放送 / 2018年6月10日(日) 再放送

    西播磨の山城を理解するのに欠かせない「赤松氏」について、2回にわたってお話しました。最も有名な赤松円心を中心に、3人の息子と各系統について説明してきました。長男・範資(のりすけ)は、息子の代になって細川氏に播磨国守護を乗っ取られました。次男・貞範の系統は本人が美作国守護となったのが最高位で、後に赤松の本宗家が長男から三男の系統に渡ってしまった不運に加えまして、時の足利将軍に気に入られたのは良いのですが、ひいきの引き倒しが、あの「嘉吉の乱」の原因となりました。そして三男・則祐の系統は、何かにつけ波乱万丈で、円心の曽孫・満祐(みつすけ)が、第6代将軍の足利義教(よしのり)を殺害する「嘉吉の乱」を起こしてしまい、絶頂期の赤松本宗家が断絶しました。

    しかし、これは一時的な断絶で、雌伏17年を経て赤松家は、たくましくよみがえります。将軍・義教に所領を没収された恨みを持つ、満祐の弟・義雅の系統が赤松氏の名跡を継いでいきます。義雅の孫・政則がお家再興へのろしを挙げます。1392年に南北朝合体後も南朝再興を図る後南朝が断続的に活動していましたが、「三種の神器」の一つで皇位の印の神璽(しんじ)「ヤサカニノマガタマ」が奪われたままでした。その神璽を1458年、赤松政則が後南朝から奪回した大手柄によって念願の赤松家の再興を果たします。

    まず加賀国半国の守護に任じられ、応仁の乱での更なる軍功により赤松氏の古くからの領地である播磨・備前・美作3国の守護職も回復しました。過去には無かった加賀半国のおまけまで付ける大殊勲でした。ただし、この赤松氏復興に力を尽くした守護代の浦上氏が後に力をつけ、最終的には下剋上を起こす災いの種となりますので、歴史は皮肉なものです。

    厄介の始まりは、赤松政則に世継ぎがいなかったことです。そこで、円心の長男・範資(のりすけ)から数えて8代目の義村を婿養子に迎えました。この時点では播磨・備前・美作3国の守護職も継承されていましたが、復興した赤松本宗家の実権は、徐々に力を付けてきた守護代の浦上氏が握るようになっていました。ついには養子の赤松義村を室津に幽閉して、最後は暗殺してしまいます。さらに、その孫・義祐(よしすけ)も浦上氏によって追われ、赤松氏は先細りします。

    赤松義祐の息子・則房(のりふさ)が豊臣秀吉のもとで播磨・置塩1万石などを与えられましたが、没収後、1585年、現徳島県藍住町の住吉城1万石に移されました。その住吉城を継いだ息子の則英(のりひで)が、「武将赤松氏の最後」との説もありますが、則英については史料的に確認できないため、実質、則房の代をもって最後と見る向きが強くなっています。

    いずれにしても「嘉吉の乱」直前に全盛を誇り、後に驚異的な復活を遂げた赤松氏でしたが、下剋上の世となってからよみがえることは、ありませんでした。