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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年6月24日(日) 08時30分

    城山城と嘉吉の乱

    2018年6月19日(火) 放送 / 2018年6月24日(日) 再放送

    これまで、何度も「城山城」についてお話してきましたが、何と言っても赤松氏がこの城で一度断絶した事実が最大の出来事でした。なぜ赤松一族が籠城の末、滅ぼされなければならなかったのか。これは、もうお分かりのように「嘉吉の乱」の結果です。赤松円心の長男・範資が亡くなった後、宗家を引き継いだのは三男・則祐でした。その息子・義則のさらに息子・満祐(みつすけ)、つまり円心の曽孫が、第6代将軍の足利義教(よしのり)を殺害したのが「嘉吉の乱」でした。名前の読みが同じで紛らわしいですね。満祐の父・義則は、義理の義に規則の則で、殺された将軍の義教は、同じ義理の義に「教える」という字です。

    今回は、その「嘉吉の乱」と城山城との関係を詳しくひもときましょう。少しおさらいをします。満祐の代は、まさに赤松氏の全盛期でした。これを足利将軍側からすれば脅威に映りましたので、幕府の権力を取り戻そうとした6代将軍・義教は、赤松氏が治める領域を侵食しようとしました。これを恨んだ満祐が将軍を京都の自宅に招き、謀殺したのでした。嘉吉元(1441)年6月24日のことです。

    満祐は将軍殺害の裏に、次期将軍を自らの息のかかった人物を据えようとの野望を持っていました。それは、足利尊氏の子で、尊氏の弟・直義(ただよし)の養子に入った足利直冬(ただふゆ)の孫・冬氏(ふゆうじ)です。少々複雑ですが、血統的には、庶子ながら「尊氏の曽孫・冬氏」を迎えて、もっともらしい「足利義尊(よしたか)」と名乗らせて、次期将軍として認めさそうとしました。しかし、誰もこれに応じてくれず、逆に赤松満祐は幕府の追討を受けました。「城山城合戦」の模様を『播州古城軍録』は次のように伝えています。

    城山城は、満祐の弟・義雅が守っていました。満祐の本拠である姫路の坂本城は平城のため、籠城には不向きでした。そこで城山城に移り、幕府軍を迎え撃ちました。坂本城は赤松氏の播磨支配の中心でしたので、回を改めてお話します。さて、たつの市の城山城は、これまで見てきたように、山険しく谷深く、南北が峰続きで、北に祇園岳、南には的場山が控え、全体で要塞群となっていました。おまけに天然の水堀と言える揖保川も流れていました。

    まず、赤松満祐の弟・義雅には手勢1000余騎を与えて但馬口に遣わしました。これは、山名氏の播磨への侵入に備えるためです。満祐自身は坂本城から城山城に入り、一族80人余りと別所・櫛橋・小寺・依藤氏ら恭順を表明した3500余騎が待機したかと思う間もなく、幕府軍の攻撃が始まりました。大手方面から細川・武田の一族3万余騎、搦手方面からは山名宗全と教清(のりきよ)の2万余騎が但馬口から攻め込んできました。幕府軍は城山城を完全に包囲して東西の谷筋から攻め登ってきました。これに対して赤松方は、前年の「永享の乱」も経験して戦慣れした上月・小寺・別所らが最初は奮戦したのですが、やがて敗色濃厚となり、満祐は息子・教康(のりやす)を伊勢国に落ち延びさせて赤松家の再興を託し、自身は城に火を放って一族とともに切腹して果てました。嘉吉元年9月10日のことでした。