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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年7月8日(日) 08時30分

    古代山城の新説

    2018年7月3日(火) 放送 / 2018年7月8日(日) 再放送

    たつの市新宮町馬立(うまたて)にある「城山(きのやま)城」については、赤松氏が築城した「中世山城」と、それより700年も古い「古代山城」の2つの要素がある「複合遺跡」と話してきましたが、古代山城については「朝鮮式山城」の別名があります。その理由は、朝鮮半島南西部にあった「百済」の復興のために援軍とした駆けつけた日本の倭と百済の連合軍が、半島南東部にあった新羅と中国・唐の連合軍に、白村江で大敗した結果、海峡を越えての逆襲を恐れた結果でした。

    しかし近年の研究によると、「朝鮮式山城は単なる防衛拠点の意味合いだけではない」との新説も出てきました。2018年2月、岡山大学で開かれた考古学研究会の「古代山城築城の意義」と題したシンポジウムで次のような発表がありました。

    古代山城は、確かに663年の「白村江」の敗戦を機に、対馬から北部九州、瀬戸内海沿いに畿内まで分布していました。日本に攻めてくる危機は、敗戦の13年後、唐が朝鮮半島から撤退した676年ごろには無くなっていたにもかかわらず、多くの山城は維持されている事実に注目しています。『日本書紀』によると、山城の廃止が、大和の高安城が701年で、岡山にあったと見られる2つの山城は719年と記しています。つまり、逆襲される危機が無くなってもなお四半世紀にわたって「朝鮮式山城」が戦いに備えていた事実を物語っています。

    話を整理しましょう。実際には無かったのですが、朝鮮半島から畿内を目指した場合の船団は備讃瀬戸を必ず通るため、これを挟み撃ちするのに今の岡山、香川の両県に防衛拠点を築くのは理にかなっています。そして、一連の古代山城は、律令制に基づく新しい国家を目指す「朝廷肝いりの拠点」でもありました。その証拠は、城と城の間隔が20キロ程度に保たれている点にも表れていまして、のろしなどの連絡・通信をはっきりと意識しておりました。つまり、山城同士の広域ネットワークが朝廷によって整然と構築されていたと考えられます。

    また、城の名前が紛らわしいのですが、たつの市の「城山(きのやま)城」と同じ漢字の香川県坂出市の城山(きやま)城を例に取り、こうした状況をさらに一歩進めて、後に城山(きやま)城の麓に「讃岐の国府」が成立した点にも注目します。古代山城の築城が、食料の備蓄や交通・通信の拠点になり、地方を統治する役所づくりに結びついたのではないかとも考えています。さらには、南九州から畿内に上る隼人ら、かつての抵抗勢力に朝廷の権威を見せつける意味も見いだしています。

    そして、なぜ朝鮮半島有事の危機が去っても、いつまでも山城を維持したのでしょうか。天智天皇の政権を引き継いだ天武天皇は、軍事的緊張を維持し続けることによって、白村江での敗戦の責任追及をそらし、国内の分裂を避けたと考えても不思議ではない―といった現代的解釈もされています。