坂本城(上)
2018年7月10日(火) 放送 / 2018年7月15日(日) 再放送
たつの市新宮町馬立にある「城山城」については、これまで何度も角度を変えてお話してきましたが、やはり1441年に起きた「嘉吉の乱」の結果、この城で赤松満祐ら一族郎党が自決して、いったん赤松氏が断絶した事実が最大の出来事でした。「城山城合戦」として広く知られます。それ以前、赤松氏は播磨国守護としては現姫路市の書写山南西の麓を拠点に領国支配をしていました。その根城「坂本城」は、今回の「西播磨の山城」エリアからは外れますが、赤松氏がかつて中心にした所ですので、例外的にこの坂本城を詳しく見ていきましょう。
先ほど坂本城は、エリア的に例外と言いましたが、もう1点、本来範疇には入らない事柄があります。もっと根本的な「山城ではない」事実です。そうなのです。坂本城は時代的には、14世紀末から15世紀初めに建てられ、16世紀初頭に廃絶するまで100年余りにわたって使われた、まさに「中世の城」なのですが、数少ない「平城」に属します。付近の土地と比べても目立った高さはほとんどありません。
しかし、守護として播磨という広大な地域ににらみを利かして、効率よく領国経営するにはこれほどの最適地はありません。城の東を夢前川が流れ、西には支流の菅生川があり、街道も近くで因幡街道や作州街道などが東西南北に交差する交通の要地にあるため、経済面から時代を先取りした利点がありました。もちろん、いざ戦いとなっても、坂本城の西に天神山(164メートル)がそびえているため、こちらに逃げ込んでこもることも可能でした。実際は「嘉吉の乱」に際して、この城では籠城できないと判断して、赤松氏一族は城山城に移って幕府軍を迎え撃ち、結局、満祐らは自決して果ててしまいます。
その満祐は、赤松氏をいったんは最盛期にもたらしたのですが、まだ父・義則も健在で絶頂だった応永29(1422)年、満祐の曽祖父・円心の時代に築城した坂本城を大改修したとの説が有力です。室町幕府の四職家トップの侍所頭人としての高い格式にふさわしい、大きく豪華な作りだったとされます。江戸時代の『姫路御領書留』という文献には「約133メートル×約86メートル」と記されていることから、かなりの規模だったことが分かります。しかし、1979年の発掘調査では、当時の役所や高官の住まいには欠かせない「瓦」がさっぱり出ないという、やや興ざめな結果が出ています。とすれば、屋根は、瓦より格が落ちる板か草でふかれていたこととなるからです。
そんな坂本城は現在、どうなっているのでしょうか。高い山にある山城なら、放置されるケースが多いため、逆に何らかの痕跡が残っているものなのですが、何しろ平野の城は、いったん廃止されると、さまざまな用途に転用されてしまいます。坂本城も例外ではなく、わずかな土塁と堀の跡があるだけです。城の中心部が池になっていた頃もあり、現在では、城跡を横断する書写東西線の道路が走り、脇に「書写坂本城跡」の標柱が立っているだけです。