白旗城(上)
2018年7月24日(火) 放送 / 2018年7月29日(日) 再放送
西播磨の山城の多くは、赤松氏が絡んでいますが、中でも所在地と築城者の2つの点で、これから取り上げる「白旗城」は最もメジャーな山城と言えるでしょう。その理由を述べる前に少し復習しておきます。
赤松氏のルーツは「村上源氏」とされまして、10世紀中ごろの村上天皇(在位946~967年)の子孫・源師房を祖とする賜姓皇族の一つでした。その初代・師房から数えて10代目の則景という人物が、播磨国佐用荘の地頭職に任じられまして、現在の佐用町と上郡町の一部となっている「赤松村」に土着しました。息子・家範の時代に、地名から「赤松氏」を名乗ったとされます。その家範の曽孫に当たる則村(後の円心)が武人として活躍してから、家運が上向きました。つまり「赤松」とは土着した村の名前で、一族の名を挙げるのは、中興の祖である赤松円心であった事実を確認しました。
さて「白旗城」に戻りまして、所在地は、赤穂郡上郡町赤松あるいは細野です。昔の赤松村は、現在の佐用町にもまたがっていますが、いずれにしても、白旗城は、まさに赤松氏を名乗り始めた本貫地に位置するわけです。そして、築城のいきさつについて明確には判明していませんが、恐らく中心になったのは円心で、実質的には三男の則祐だろうと言われています。つまり、中興の祖・円心が赤松氏発祥のど真ん中に築城したのが白旗城なのですね。
当時の時代状況を押さえましょう。赤松円心は当初、後醍醐天皇にくみして足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒し、建武政権の樹立に貢献しましたが、その割には天皇からあまり評価されなかったため、同じく割を食っていた足利尊氏と組んで、建武政権に反旗を翻しました。戦いの過程で赤松円心が、建武政権方の有力武将だった新田義貞の軍勢を迎え撃ったのが、この白旗城とされ、建武3(1336)年のことです。
尊氏と建武政権との戦いは、天皇方の楠木正成の活躍もあり、足利勢はいったん九州に引き下がります。態勢を立て直して再び京へ攻め上る腹積もりでした。それを成功させるには、新田勢が追ってくるのをどこかで食い止めなければなりません。その辺りの情勢を見越し、1336年、赤松円心の手配により三男の則祐が白旗城を築きました。その後、新田勢が大軍を率いてこの城を包囲しましたが、50日余りの籠城を攻め切れませんでした。赤松円心・則祐の親子は尊氏への見事な援護射撃役を果たし、防波堤にもなりました。
この「白旗城合戦」で新田勢を白旗城で足止めし、九州から京都に上る足利勢を助けました。この軍功により、赤松円心は室町幕府の播磨守護職に任じられます。後には備前、美作などの守護も兼ねますので、白旗城こそ、赤松氏発展の起爆剤になったと言えるでしょう。