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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年11月18日(日) 08時30分

    波賀城(上)

    2018年11月13日(火) 放送 / 2018年11月18日(日) 再放送

    今回は、西播磨の最北部、宍粟市波賀町上野にある「波賀城(上)」です。西播磨の山城の大半は、多かれ少なかれ、赤松氏が絡んでいるのですが、この波賀城は「赤松色が薄いこと」に特徴があります。では、どんな人物が築城して拠点にしていたのか。実は、文献資料が乏しいため核心部分は、はっきりしません。それでも、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鑑』や、ずっと後の江戸中期以降の文献などを総動員すれば、おおよその見当が付きます。

    鎌倉幕府の将軍となる源頼朝配下の武将・波賀次郎なる人物が、この辺りの荘園の管理人「荘官」に任じられ、やがて豪族にのし上がった頃、伝説的な「波賀七郎」なる者が波賀城の築城に至ったのではないかと言われています。そして、時期は12世紀末から13世紀初め、鎌倉時代初期に当たります。ただ、最初の城は、波賀城から引原川を挟んで西側の狭戸山(せとやま)城だったとされます。

    城主としての波賀氏は、一説によると、初代が七郎光節、あるいは七郎左衛門光起に続いて、2代目が八郎右衛門光宗、そして3代目となると、上野重宗と、なぜか名字を広域の「波賀」から範囲の狭い大字の「上野」に改名しているのも不思議です。そんな波賀氏が3代にわたって、どれほどの間、統治していたのかは定かではありませんが、どうも鎌倉中期の弘長年間(1261~64)に、天皇の勅命に背いたかどで波賀氏が失脚し、代わって、関東地方から中村氏が地頭として着任した事実が分かっています。地頭交代の時点から逆算すれば、波賀氏は50年ほど城主だったと推測できます。

    波賀氏に代わって地頭となった中村氏は、どんな人物なのでしょうか。波賀町に残る『中村又治文書』によると、中村氏は、東北の福島市辺りの信夫(しのぶ)郡の出身で、鎌倉幕府執権の北条氏から埼玉県西部の秩父地方に所領をもらった後、波賀氏の後任として今の宍粟市波賀町小野と、岡山県久米郡辺りに該当する美作国弓削荘公文の所領をもらい、波賀の小野村に住みました。

    ただし、中村氏が宍粟郡に赴任するきっかけは、文書により異なります。先の中村文書によると、波賀七郎が勅命に背いたため、中村氏が命令を受けて出陣し、波賀氏を討ち取り、その恩賞として先の領地を与えられたとしています。

    この中村文書に対して、地元には、そもそも波賀氏はどんな勅命に背いたのかが知れる「馬隠し」なる興味深い伝説がありますが、この話は次回に回します。