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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年12月2日(日) 08時30分

    波賀城(下)

    2018年11月27日(火) 放送 / 2018年12月2日(日) 再放送

    今回は、「波賀城(下)」として、締めくくりに、現在の城跡の様子を見ていきましょう。山城の多くが険しく近寄り難いのに対して、こちらは「波賀城史蹟公園」として整備されている上、「摸擬櫓」も建てられています。何より助かるのは、車を使えば、山頂近くまで10分ほどで行けることですね。波賀町の中心部から道標に従って車道を登ると、終点に大きな駐車場があります。

    城の大手に当たる場所に「冠木門」が造られ、波賀城跡の大きな石碑が立っています。整備された遊歩道を歩くと、至る所に丸い石がごろごろと転がっていて、海抜457メートルの頂上は本丸跡ですが、意外に狭く、新しい祠がぽつんとあるだけです。西北に位置する曲輪群の一角に新しく「模擬櫓」が造られておりまして、内部は「学習資料館」として波賀城関係の資料が展示されています。ここからの眺めは抜群で、西に目をやると、波賀城の前身に当たる「狭戸山城」も一望に見渡せます。

    新しい櫓の周辺は石垣が復元され、独特の積み方もきっちり再現されています。本丸の南側に南曲輪が6つ、東側に1つの曲輪、北側には北曲輪が4つ配置されています。これは典型的な「単郭階段式縄張り」と言いまして、守りやすい上、敵にとっては攻めるに難しい「要害の城」と言えます。

    さて、この波賀城の築城年代を巡っては、さまざまな意見があります。地頭の波賀氏が建てたとされる、前身の狭戸山城に続き、波賀城を築城したのは、波賀氏に代わって地頭に着任した中村光時で、承久の乱(1221年)の後とされますが、実際はさらに40年ほど後、波賀氏が失脚してからではないかと考えられています。

    しかし、城跡の詳しい発掘調査によると、古くてもさらに200年ほど後の15世紀半ばで、16世紀半ばの可能性さえあるとします。戦国時代の16世紀後半には戦乱に備え、城の防備を固めるため本格的な縄張りが施され、石垣も築かれたのではないかとの報告があります。そんな経緯から波賀城は、石積みの技法から中世と近世の特徴を併せ持つ「過渡期の貴重な遺構」です。

    前回、最初の城主である波賀氏が勅命に従わず名馬を天皇に渡さなかった罪で、地頭と城主の座を棒に振った「馬隠しの伝説」の話をしましたが、馬の引き渡しを拒否した人物が「初代の波賀七郎」だというのも不自然で、年代的には3代目とされる上野重宗あたりの方がしっくりとくるような気がします。