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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年12月16日(日) 08時30分

    広瀬一族の興亡

    2018年12月11日(火) 放送 / 2018年12月16日(日) 再放送

    今回は「広瀬一族の興亡」です。前回は、宍粟市山崎町宇野にある長水城を根城にした、赤松氏に関係が深い「宇野氏」についてお話しましたが、同じ赤松一統で、しかも長水城を宇野氏より先に本拠にしていたと思われる「広瀬一族」について見ていきましょう。

    その前に、戦国時代の一時期、同族でありながら、宇野氏と赤松氏が決別する話をしておきます。赤松満祐が1441年、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した「嘉吉の乱」によって赤松氏がいったん滅亡し、17年後に再興するという起伏の末、戦国時代に突入していきます。時代に翻弄された宇野氏は、長く蜜月だった赤松氏とたもとを分かちます。

    播磨一帯の政情も緊迫していきます。由緒ある清和源氏で幕府管領も務めた山名氏や同じ清和源氏の細川氏に加え、西国には毛利氏が控え、下剋上を狙う浦上氏や宇喜多氏らがすきを狙う中、宇野氏は一時、出雲の尼子氏に味方して、戦国をすり抜けようとしたのですが、秀吉による播磨攻めで長水城を落とされ、一族は滅亡しました。

    長水城の落城については、後に触れます。赤松系で忘れてはならないのが「広瀬氏」です。赤松円心の長男・範資の四男・師頼という人物が後に姓を改め「広瀬氏の祖」となります。この広瀬氏も戦国の世に次々と散っていきます。

    広瀬氏の初代・師頼の後は子の頼康が継ぎ、次いで円心の次男・貞範の息子・則親が広瀬氏の2代目・頼康の婿養子となって長水城主となりました。広瀬氏3代目の則親は、1391年、山名氏が室町幕府に反乱を企てた「明徳の乱」で、円心の三男・則祐の息子・赤松義則に従って出陣して、山名氏と戦いました。この激戦で、義則の弟・右馬助をはじめ、宇野氏や黒田官兵衛の妻・(てる)の実家・櫛橋氏ら、名のある赤松系武士57人が討たれました。しかし広瀬則親は軍功を上げ、幕府から西播磨の4つの郡内に恩賞を受けました。

    則親の後を継いだ広瀬氏4代目の満親の代に、あの「嘉吉の乱」がありまして、満祐ら赤松氏一族は家臣とともにたつの市新宮町の城山城で自害しました。このとき、広瀬満親も城山城にいて没しました。

    いずれにしても、嘉吉の乱で赤松宗家はいったん滅亡し、広瀬氏も没落します。この乱の130年余り後、秀吉の播磨攻めで、広瀬政氏という者が赤松則房の置塩城から三木城に移り、討ち死にします。その息子・政清は、宇野氏の居城となっていた長水城で戦いましたが、落城前に宇野政頼・祐清の親子らと共に城から逃れましたが、宍粟市千種町岩野辺で増水のため川が渡れず、蜂須賀小六らの追っ手と激闘の末、宇野氏と共に自害しました。