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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年2月3日(日) 08時30分

    上月城(上)

    2019年1月29日(火) 放送 / 2019年2月3日(日) 再放送

    今回は、佐用町上月にある上月城の1回目です。この城は、JR姫新線上月駅の南方900メートルにある荒神山の頂上にあります。海抜140メートルで山城の一般的基準には少し足りませんが、戦国末期には、中国地方に地盤を持つ毛利氏と、東から攻めてくる信長方との攻防が繰り広げられた、典型的な「戦いの山城」でした。

    赤松系の上月景盛が、1334年の「建武の乱」に武功を挙げた2年後の1336年に、海抜193メートルの大平山に築城、2代目の盛忠が南側の荒神山に移したとされます。では、その上月氏とは、赤松氏とどのような関係があるのでしょうか。はっきりしない点も多いのですが、始まりから見ていきましょう。上月氏の祖は山田則景の息子・次郎景盛とされていまして、この景盛が初代上月城主です。上月景盛の兄に間嶋太郎景能、弟に櫛田八郎有景なる人物がいて、注目すべきは、末の弟・家範が、赤松氏の初代を名乗ったとしています。つまり、上月氏の初代・景盛は、赤松氏の初代・家範の兄ということになります。

    上月氏は、景盛の後、2代盛忠、3代盛家と続き、その子の孫に当たる4代景家の時に、あの「嘉吉の乱」が発生、赤松一族の多くが、たつの市新宮町馬立の城山城で討ち死にしました。しかし、上月氏4代目の景家は、再起を願って密かに城を抜け出しました。一緒に城山城を脱出した赤松満祐の嫡男・教康を補佐しながら伊勢に逃れました。それでも結局、赤松一統は全員自害し、ここに上月氏の嫡流も4代100年余りで滅亡しました。

    確かに上月氏の本流はこれで消えたのですが、傍流が残っていました。3代目盛家の弟の流れの上月満吉が間嶋彦太郎らと共に、嘉吉の乱の16年後、1457年、奪われていた三種の神器の1つ「神璽」を取り返すため赤松の遺臣らとともに、奈良県吉野郡の南朝・川上御所を襲いました。この時の様子は、『上月記』とも呼ばれる記録『堀秀世上月満吉連署注進状』に残っています。

    赤松氏は、円心の3男・則祐の孫・満祐の代に「嘉吉の乱」で一度滅亡しますが、満祐の弟・義雅の孫・赤松政則が、まさに命を懸けてお家再興に尽くします。先の注進状は赤松一統の行動の「末代之証拠」として記されました。事のてんまつは、嘉吉の乱の2年後「南朝の遺臣・日野有光らに奪い去られた神璽を奪い返せば、赤松家再興を許す」とされた赤松政則ら20数人は、神璽奪還のための策を練りました。

    その結果、1457年、雪が降りしきる吉野山中の南朝方を襲撃して首尾よく神璽を京に持ち帰り、晴れて赤松氏の再興が許されました。赤松政則は、その10年後、播磨を奪回しました。