利神城(3)
2019年4月2日(火) 放送 / 2019年4月7日(日) 再放送
佐用町平福にある利神城の3回目です。これまで、江戸時代初期、池田輝政の甥・由之によって建てられた「近世山城」、さらには南北朝期に赤松一族の別所敦範が築城した「中世山城」について述べましたが、今回は戦国時代に入り、秀吉軍が毛利氏の支配する中国地方への侵攻を狙い、播磨に攻め入った際、播磨・美作・備前の旧国境地帯に位置する上月城で激しい攻防が繰り広げられました。その戦いと利神城との関連を見ていきましょう。
当時、信長方に属し、上月城主だった尼子勝久と家臣の山中鹿之助に攻められて1578年、利神城は落城しました。同じ年、今度は上月城が毛利軍に攻められて落ちると、利神城は、その頃、毛利方に属していた宇喜多直家のものとなり、服部勘助という家臣が居城しました。しかし、東西の勢力が播磨の地でせめぎ合う中、宇喜多氏はやがて秀吉側に付きます。
1581年に宇喜多直家が亡くなると、まだ幼かった息子の秀家は秀吉に預けられ、やがて備前・美作と備中半国の計50万石余りを領有するまでに成長し、宇喜多秀家は秀吉軍の主力として各地に出兵して全国統一事業に貢献しました。しかし、1600年の関ケ原合戦で宇喜多氏は西軍に属し、東軍を率いる徳川家康に敗れました。宇喜多秀家は一時、薩摩の島津氏にかくまわれましたが改易され、結局、八丈島への遠島に処されてしまいました。
このように別所氏によって築城された利神城は、宇喜多氏が1580年から直家-秀家へと2代約20年にわたって領有します。江戸時代に入ると、姫路城主・池田輝政が播磨一帯を支配する中で、利神城は姫路の出城となります。佐用郡のうち2万2000石を任された甥の由之が本格的に修築し、3層の天守閣を持つ壮大な姿に生まれ変わらせますが、この行為が幕府を刺激するのではないかと恐れた輝政が、破却を命じます。
池田由之は備前・下津城へと転じ、代わってやって来た輝政の6男・池田輝興も1631年に赤穂藩主へと移り、平福藩はわずか16年の命をもって消滅しました。
その後、平福は「利神城の城下町」から、旗本の松井松平家5000石が陣屋を置き、「因幡街道の宿場町」として江戸時代を通じて発展していきます。時代の息遣いが今も残り、古いたたずまいを求める観光客で静かなブームを呼んでいます。
特に佐用川の川端風景は、石垣の上に建ち並ぶ白壁や土壁の川屋敷などが、美しく川面に影を映しています。民家の多くは明治時代までに建てられたもので、南北に1.2キロほど続いています。現存する平福陣屋門は、旗本領となり代官支配に変わった際に造られ、現在の門は、幕末の1864年に代官佐々木平八郎が建築したと言います。陣屋の建物は明治初年に取り壊され、門だけとなったのは少し寂しいですね。
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