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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年4月21日(日) 08時30分

    福原城

    2019年4月16日(火) 放送 / 2019年4月21日(日) 再放送

    今回は、佐用町福原にある福原城です。この辺りは、西播磨でも西寄りで、備前や美作の旧国境が近いため、戦国時代末期には西の毛利軍、東の信長・秀吉軍が領域を奪い合った所です。特に赤松一族の「播磨衆」が各地に山城を築いて割拠していました。

    具体的には、西の佐用川、東の千種川とその支流に沿って多くの拠点が山城ネットワークを形成していました。佐用川沿いには上月城から北へ仁位山・早瀬・福原・高山・利神の城が上流に位置し、千草川沿岸には、飯の山城から北東へ櫛田・高倉・熊見・徳久の山城が連なり、支流の志文川や本郷川沿いにも徳平・天神山・大内谷の城が控えていました。

    そんな川沿いの山城配置の一環として福原城は、建武年間の1330年代後半に佐用兵庫介範家が築城し、後に福原隼人という人物の居城が確認できます。あまり知られない両者は、どんな人物なのでしょうか。まず佐用氏は、赤松一族で、初代の赤松家範の叔父、つまり家範の父・則景の弟・頼景が、佐用郡の西山城を築城して佐用氏を称しました。佐用氏を初めて名乗った頼景の曽孫が、範家の父・為範です。つまり福原城を築城した佐用範家とは、西山城を築城した初代佐用氏の玄孫というわけです。

    その佐用範家は、鎌倉時代末期の武将で、佐用為範の三男で、三郎と通称されました。福原城は佐用氏の根城から、佐用城とも呼ばれました。佐用氏初代の頼景から数えて5代目の範家は、弓の名手で武勇の誉れも高く、1333年、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けて倒幕挙兵した赤松円心に従い、各地を転戦しました。その奮闘ぶりから円心の四男・氏範や姫路の妻鹿城主だった妻鹿孫三郎長宗らとともに「赤松八大力(だいりき)」の1人に数えられます。

    佐用範家は、円心が挙兵した年の4月、京都市伏見区での「久我畷(くがなわて)の戦い」では、幕府方の総大将・名越尾張守高家を一矢の弓で討ち取ったとの大手柄が『太平記』に書かれています。範家が、戦いから佐用に戻り、程なく築いた福原城は、代表的な「平山城」で、南側に川、後ろには山が控える、まさに持ってこいの好立地でした。現在も空堀をはじめ防塁や馬落としなど、当時の様子をとどめています。

    その後、「赤松三十六家」の一つで、上月氏一統とされる福原氏が城を継ぎましたが、戦国末期、東西の勢力が西播磨で拮抗する中、福原城は南西の上月城、南の高倉城、北の利神城などと共に赤松一統の山城ネットワークを形成していました。しかし1577年11月、秀吉との攻防で上月城が落ち、福原城も運命を共にしました。後世、最後の城主・福原則尚(のりひさ)の首級を祭るため城跡に福原霊社が建てられました。この霊社の東側に本丸があったようです。