大島山城(下)
2019年5月7日(火) 放送 / 2019年5月12日(日) 再放送
今回は、大島山城の3回目です。入江の奥の小島に築いた山城近くの、那波という小さな港町が、やがて「造船の町・相生」へと発展していく道のりを見ていきましょう。
2019年5月1日に「令和」へと改元されたのを機に、このミニ番組も少し装いを改めまして、山城を紹介する道すがら、近くの名所・旧跡にも寄り道しまして、幅広く町の歴史にも踏み込んで、厚みのあるものにしていきます。
さて、現在の相生市は、播磨の中でも異色の自治体です。市立歴史民俗博物館の言葉を借りれば、「姫路や明石のように江戸時代から連続して発達してきた都市とは異なり、近代百年の工業化の波に乗って成長した小都市で、中核となる城下町や宿場町がなかったにもかかわらず、戦時中までに市制を施行した播磨国唯一の地域」だからなのです。
しかし、中世の歴史は、今の相生市の領域とほぼ重なる「矢野荘」の存在だけでも十分過ぎる重みがあります。平安中期の1075年、赤穂郡司・秦為辰が久富保の開発を国衙に申請しましたのが始まりです。この開発地は播磨守・藤原顕季を経て、孫娘の美福門院(近衛天皇の母)に受け継がれます。1137年には、皇室領矢野荘が成立しました。後には勢力争いの地にもなりますが、中央政権と直接の関係ができたため多くの古文書が残され、当時の様子が手に取るように分かる利点があります。
重要な荘園を出入りする物資と人の窓口になったのが、相生湾の奥にある那波港でした。大島山城のすぐ近くです。大島山城を築いた海老名氏は、古里に近い鶴ケ岡八幡宮を勧請した那波八幡神社をはじめ、戦の陣中で手に入れた菅原道真の木像を祭ったのが始まりとされる相生天満神社、そして、海中の島に江ノ島弁財天を勧請した旭弁天社も創建しました。弁天社には後に、造船所の社宅街の人々によって社殿が建てられました。
このように海と深く関わってきた相生で造船業が始まるのは、明治40年に船の修理専門の会社「播磨船渠」の設立からです。村長に招かれ、やがて県会議員を経て代議士にもなる唐端清太郎が、町の未来を小さな造船所に託したのでした。