伝統的港町・坂越浦
2019年5月14日(火) 放送 / 2019年5月19日(日) 再放送
今回は、江戸時代の坂越浦のお話です。赤穂市坂越には、坂越浦城と茶臼山城の2つの山城がありましたが、戦国時代末期には、本来の砦としての役割を終え、わずかに坂越浦城が見晴らしの良さから、赤穂藩の御番所となっているだけでした。「浦」という地名が物語るように、深い入り江を持つ天然地形が織りなす良港を抱えるこの町は、直線距離で東へ6キロ余りに位置する室津と並び、北前船や参勤交代でにぎわいました。
かつての殷賑ぶりをほうふつさせる伝統的建造物群による古い町並みは、都市景観100選の「大賞」にも選ばれましたし、秦河勝聖域の天然記念物「生島」を包むように広がる坂越湾の眺望も、2つの山城に登れば納得できます。
さて、港町としての坂越の歴史は古く、瀬戸内海を往来する船の中継地として古代から足跡を記しています。こちらに立ち寄った、時代を代表する人物を挙げてみましょう。平安初期の807年、中国から帰国途中の空海▽さらに100年近くたった901年、都から大宰府へ左遷される菅原道真▽安土桃山時代の1565年、長崎の平戸から京都に向かうイエズス会宣教師のルイス・フロイスらの名前が分かっています。
そして江戸時代に入ると、船持ち船頭が大坂や兵庫から西周りで遠く北海道・松前を目指す「北前船」の拠点として、また西国大名の参勤交代の港としても発展します。オランダ船の入港も何度かありまして、江戸後期の1787年には、蘭学者の司馬江漢も立ち寄っています。当時、回船業を営んだ豪商のうち奥藤家は、後に金融業を経て、現在は銘酒「忠臣蔵」で知られる造り酒屋として健在です。
しかし、江戸後期に入ると、日本海側の港が躍進します。昆布やニシンを北海道で仕入れた北前船が瀬戸内に戻る前に立ち寄る日本海側の港の方が有利になり、佐渡や越前、加賀などに強力な船主が誕生しまして、瀬戸内の港が衰退に向かいました。そんな中、坂越は「赤穂の塩」を積み出す港として、明治30年代に鉄道網が整備されるまで栄え、坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで「大道」と呼ばれる風格ある通りが続いていました。