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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年6月2日(日) 08時30分

    赤松一族再び(上)

    2019年5月28日(火) 放送 / 2019年6月2日(日) 再放送

    昨年このシリーズが始まって2カ月目に「赤松氏一族」について何回か取り上げましたが、1年余りの間に随分多くの一族の名前が出てまいりましたので、ここらで復習を兼ね、視点を改めて再び赤松氏についてお話いたします。「赤松一族再び」の1回目です。

    そもそもの赤松氏のルーツは「村上源氏」とされています。つまり、平安中期、10世紀中ごろの村上天皇(在位946~967年)の子孫で、皇子・具平(ともひら)親王の子・源師房(もろふさ)を祖とする「賜姓皇族」の一つに挙げられます。赤松氏は、鎌倉時代以降、多数輩出した村上天皇系の公家や武家の一党なのですが、この初代・源師房から後が、各種ある系図により異なります。

    放送では、奇をてらった系図は排除し、標準と思われる流れを採用してきましたが、それでも長丁場となる中、多少の揺れが生じてきました。当初は、赤松氏のルーツと思われる初代・源師房から数えて10代目の則景が、播磨国佐用荘の地頭職に任じられて、荘内の赤松村(現佐用町と上郡町の一部)に土着し、息子・家範の時代に、地名から赤松氏を名乗った―と説明しました。

    しかし、源則景が果たして「師房から数えて10代目」なのかとの疑問がありますし、その間の8代にわたる人物にも、また人数にも揺れがあります。そんな中で、則景から過去の3代、つまり則景の父・祖父・曽祖父については、それぞれ頼範・季則(すえのり)・季房で、それほど異論はありません。

    ただ、これまでの話では、源則景が直接、播磨国佐用荘の地頭に任じられたかのような印象を与えたかと思いますが、その辺り、混乱を承知の上で、「播磨にやって来て初めて土着したのは則景より古い」とする異説を交えつつ、少し詳しく述べておきましょう。

    赤松系の人物で播磨に初めて土着したのは、則景の3代前、曽祖父の季房(すえふさ)だとする説です。平安後期の1107年、源義親が出雲で反乱を起こした際、季房の父・師季(もろすえ)もこの乱に加わったのですが、平清盛の祖父・正盛によって討伐され、播磨国佐用荘に流されたと言います。時に1111年ともされます。

    師季は、のちに許されて都に帰りますが、息子の季房はこの地にとどまり、地名から姓を源から山田と改め、ついでに名も季則(すえのり)に変えたとされます。この説によると、異論の少ない「則景の前3代」が揺らぎ、則景の祖父・季則と曽祖父・季房が同一人物となって矛盾しますが、今後も注意しながら異説も紹介していきたいと思います。