赤穂城(1)
2019年6月18日(火) 放送 / 2019年6月23日(日) 再放送
「赤穂城」の1回目です。赤穂市内の山城については、既に海岸線にある坂越浦城と茶臼山城を取り上げましたが、「忠臣蔵」で知られる赤穂城には触れておりません。理由は、江戸時代に築かれた近世城郭で、何より、千種川河口のデルタ地帯の丘に築かれた、海に臨む「平城」だからです。しかし、超有名な赤穂城を素通りするわけにはいきませんので、6回に分け、赤穂事件を起こした浅野時代だけではなく、その前の池田時代と、浅野家の後、最も長く藩主を務めた森時代にも踏み込んでお話いたします。
赤穂藩は江戸時代に播磨の赤穂郡近辺を統治した藩で、石高は2万石から最大5万3000石と時代によって変わり、領地の広さも変動しましたが、最盛期は今の赤穂・相生に加え加西・加東の計4市と上郡・佐用両町にまで及んでいました。
浅野家が藩主を務めていた頃に起きた「元禄赤穂事件」で知られますが、実はそれ以前の江戸初期、池田家が支配していた頃にも藩主が乱心し、正室らを殺害に及ぶ事件がありましたし、浅野家断絶後、赤穂に入った森家でも幕末に、攘夷派が、敵対する守旧派の家老・森主税らを暗殺する騒動も起きています。今なお語り継がれる「忠臣蔵」の存在が大き過ぎるためか、池田時代と森時代にあった二つの事件は、かすんでしまいました。
さて江戸時代の播磨は、外様大名の池田輝政が生きていた時代と没後では、全く様子が違います。輝政は、世界遺産の姫路城に象徴されるように、自ら播磨全域を統治した上、次男の忠継が岡山の備前藩を支配し、三男の忠雄が淡路藩主を務め、さらに弟の長吉が鳥取藩を治めるに及び、池田一族で、播磨・備前・淡路・因幡の四つの旧国に君臨していました。石高は締めて約100万石となり、姫路城はまさに「100万石」にふさわしい規模を誇りました。
しかし、池田一族をまとめ上げた輝政が1613年に没すると、姫路藩を継いだ長男・利隆が3年後に亡くなったのに加え、1614年冬から翌年夏にかけての「大坂の陣」で豊臣家が滅んだことで事態が一変します。西日本には豊臣家から恩を受けた外様大名の大きな藩が多数あり、事あれば、徳川幕府に反旗を翻す恐れがありました。しかし豊臣家が滅亡し、心配の種は消えました。池田一族に課された「防波堤」の任務はもう要りません。それどころか逆に、外様の大きな藩が播磨に君臨する事態こそ幕府には脅威となります。
そこで幕府が考えたのが「姫路藩解体」による領国支配の一大再編でした。赤穂藩は、この「支配構造再編」の結果、誕生した幾つかの藩の一つでした。