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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年7月7日(日) 08時30分

    赤穂城(3)

    2019年7月2日(火) 放送 / 2019年7月7日(日) 再放送

    「赤穂城」の3回目です。3万5000石の赤穂藩は、大姫路藩が解体された後、姫路藩主を務めた池田輝政の五男・政綱が入ってスタートしましたが、弟の輝興が突然乱心しての殺人事件によって、池田家支配はわずか2代30年で終わりました。後を受け1645年、茨城県の笠間藩から着任したのが浅野家初代・長直で、5万3000石に上がった石高の勢いで、壮大な赤穂城を新築しました。浅野家2代目藩主の長友は1671年、義兄・義弟に3000石を分知したため、以後は5万石となりました。

    そして、いよいよ「時は元禄14年(1701年)」になりました。浅野家3代目の内匠頭長矩(ながのり)が江戸城中「松の廊下」で、儀式を取り仕切る高家を務めていた旗本の吉良上野介義央に斬りつける刃傷沙汰を起こします。他の騒動と区別するため「元禄赤穂事件」と呼びます。藩主・長矩は切腹、浅野家は断絶しました。

    ご承知の通り、藩主の切腹でも事件は落着しません。当時のおきてだった「けんか両成敗」ではなく、浅野に厳しく、吉良に甘い裁定だったからです。お家断絶で浪人となった家臣たちが裁定を不服として翌年、吉良邸に討ち入って義央の首を取り、切腹で散った主君の敵を討ちました。「忠臣蔵」として語り継がれ、数々の小説や舞台、映画などに取り上げられた「元禄赤穂事件」です。

    この歴史的大事件で赤穂浅野家は、3代56年で断絶するのですが、完全に一族が消え去ったわけではありません。事件に連座したとして長矩の弟・浅野長広(大学)が持っていた赤穂新田3000石の所領をいったん召し上げられましたが、討ち入り8年後の1710年、大幅に減封されて、房総半島南端の500石に移されましたが、身分は旗本に戻り、長直系浅野家は、ここ千葉県で続きました。

    思いがけない刃傷事件のため同年、ピンチヒッター的に栃木県那須烏山市の烏山藩から永井直敬(なおひろ)が3万2000石で赤穂に入るのですが、5年後には、長野県飯山市の飯山藩へ転封となります。続けて、岡山県井原市の西江原藩から森長直が2万石で赤穂に入り、廃藩置県まで12代165年も続きます。赤穂・浅野家、赤穂・森家とも初代が同じ長直というのも何かの縁でしょうか。「忠臣蔵」の赤穂・浅野家が、わずか3代56年だったのに対して、赤穂藩主を3倍近くにわたって務めた森家の知名度が上がらないのは気の毒な限りです。

    加えて森時代は、浅野家の頃と比べると石高が半分以下の2万石しかなく、常に藩の財政は困窮していました。どれほど困っていたのかの実態については次回、お話しましょう。