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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年8月18日(日) 08時30分

    上月城の攻防再び

    2019年8月13日(火) 放送 / 2019年8月18日(日) 再放送

    三日月藩領地だった上月城の復習です。佐用町乃井野に陣屋があった三日月藩の領地は、播磨の佐用・揖西・宍粟の3郡内65カ村1万5000石の小さな藩でした。領地の中には、戦国時代に毛利勢と信長勢の間で何度も攻防を繰り広げられた上月城も含まれていました。

    戦国時代を思い出してください。上月城は、上月氏初代の景盛が築城しましたが、4代100年余りで本家は滅亡しました。その後は山名氏や尼子氏、さらには大内・浦上・(すえ)氏らの襲撃に遭い、目まぐるしく城主が交代しました。やがて佐用郡を支配していた赤松氏の居城となり、1577年頃、赤松氏を復活させた政則の養子・義村の息子・赤松政元が、姫路の置塩城から上月城に入り、その息子・政範の時代には西播磨5郡を支配し、16万石の大勢力になっていました。しかし肝心の上月氏は、先祖が築いた上月城へは復帰できず、置塩城主の赤松氏に仕えました。

    戦国末期となると、上月城は、播磨・備前・美作の境界に位置するが故に、分捕り合戦の的となります。西の毛利勢に対して東から攻めてくる信長方の秀吉軍というのが基本構図ですが、播磨衆の多くは迷いながらも当初は毛利方に付いていました。赤松氏を復活させた、有名な赤松政則の曽孫に当たる、政治の「政」に規範の「範」と書く、赤松政範と宇喜多直家の守る上月城は1577年、信長勢が中国攻略のため播磨に入ると、秀吉の猛攻撃を受けていったん陥落します。

    毛利方の赤松政範らが守る上月城は一度持ち直したものの、再び信長方に渡ります。そこで、かつて毛利に滅ぼされた尼子氏の再興を目指す尼子勝久と山中鹿介ら、信長方の尼子氏再興軍が上月城の守りを任されました。しかし一時、信長方に付いていた三木の別所氏が毛利側に寝返ると、東播磨の諸豪族の同調を得て別所氏は篭城戦を仕掛けます。一方、秀吉軍の上月への進出によって、毛利勢も大軍を派遣して別所氏を援護する必要に迫られました。

    この時点で、信長と毛利の戦いにおける最重要拠点は上月から三木へと移り、両陣営にとって上月城の価値は一気に下がりました。しかし、毛利勢は大軍で上月城を攻めたため、秀吉軍は高倉山に本陣を構え、信長の援軍を合わせると7万5000にも達しましたが、三木攻めの方が重要と判断し、上月城は見捨てられました。尼子氏と山中鹿介はここに滅びました。

    戦国時代末期に東西の勢力が激突した上月は、江戸時代に入り、姫路藩領などを経て、1697年から三日月藩の領地となって以降、長く平和が続きましたが、幕末になると、この地で生まれ育った、立石孫一郎という大庄屋の息子が激動の世で名を残します。