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山崎整の西播磨の山城

  • 2019年9月8日(日) 08時30分

    大鳥圭介

    2019年9月3日(火) 放送 / 2019年9月8日(日) 再放送

    山城から少し離れますが、江戸幕府の反乱軍幹部から明治政府に仕えた上郡出身の大鳥圭介のお話です。先に、佐用町乃井野に陣屋があった三日月藩の上月に生まれた幕末の志士・立石孫一郎について述べました。長州に走り第二奇兵隊の脱走兵士らと倒幕運動を繰り広げたものの、志半ばで殺害された孫一郎とは逆の立場となった、今回の主役・大鳥圭介も、同じ千種川流域で育ちました。

    大鳥は、現在の上郡町岩木の医者の家に生まれました。岡山県備前市の閑谷学校で学び、蘭方医の助手となって、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を習得して江戸に出ます。やがて西洋式兵学や写真術も修め、勝海舟の知遇を得て、ジョン・万次郎から直接英語を学びます。

    上郡が1769年以降、尼崎藩の飛び地になっていたことから、25歳で大鳥は藩士に取り立てられ、大砲の鋳造や砲台築造、洋式兵制の伝授と調練などに実力を発揮していきます。博覧強記ぶりが全国にとどろき、うわさを聞き付けた徳島藩への移籍を経て33歳で幕臣となって、歩兵奉行へと上り詰めます。開成所教授を兼務した頃、「二院制議会」の採用を幕府に建言している先見性は、注目に値します。

    ただし、鳥羽・伏見の戦いで敗れ、窮地に立った幕府の行く末を決める江戸城の評定では、榎本武揚らと共に「戦いの継続」を強硬に主張して、幕府と決別しました。戊辰戦争では榎本の海軍に対して大鳥は、陸戦隊として関東から北海道へと軍を進めます。東北戦線では、大鳥の古里に近い三日月藩の兵士が新政府軍として参戦していたのは歴史の皮肉でしょう。

    武器弾薬が次々と補給される新政府軍に対して、大鳥らの幕府反乱軍には補給が十分に受けられなかった上、頼みとした奥羽越列藩同盟の勢いが徐々に薄れていきまして、やがては大勢が新政府への恭順に流れ、最後に会津藩だけが残りました。

    結局、箱館・五稜郭の戦いの末、降伏した旧幕府軍の将兵は、ほとんどが後に釈放されました。榎本ら7人の幹部は、投獄されましたが、明治5年1月、特赦により出獄しました。新政府は、大鳥の能力を高く買い、欧米各国を歴訪させ、技術官僚として殖産興業政策に当たらせました。大鳥は工作局長時代、官営工場を総括し、セメントやガラス・造船・紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発のほか、水利・ダム技術の紹介などに努め、期待に応えました。

    外交官に転じて駐清国特命全権公使などを務め、日清戦争直前の困難な外交交渉に当たりました。帰国後、枢密顧問官となり男爵を授けられました。