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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年10月13日(日) 08時30分

    駒山城

    2019年10月8日(火) 放送 / 2019年10月13日(日) 再放送

    上郡町山野里と井上にまたがる駒山城です。中世の山城は、複数ある枝城と連携して、敵に対処するのが基本でした。上郡町赤松の白旗城を中心として、西へ約3キロにある苔縄城やその南の駒山城、さらには相生市矢野町の感状山城ともネットワークを組んでいました。

    駒山城は14世紀の南北朝期に赤松氏が海抜263メートルの駒山山頂に築城しました。白旗城の枝城の一つですが、この駒山城は、あまり知られていないのにかなりの遺物に恵まれているのが特徴で、上郡町の文化財に指定されています。城跡の痕跡に乏しい割には知名度の高い苔縄城とは対照的です。

    駒山城への登り口は2カ所ありまして、南からの「羽山(はやま)登山路」と東からの「いろは道」とも呼ばれる「井上登山路」です。羽山道は距離があるものの緩やかな稜線が多いため、比較的楽に登れます。しかし、途中「いろは道」と合流した後は、いきなり険しい岩山を登らなければなりません。

    現地の説明板では、ぼかした表現になっている築城者と築城時期について、周辺の山城配置から一歩踏み込んで解釈してみましょう。駒山城は、赤松円心が築城したとされる白旗城と同じ頃、南北朝期でも初期の1330年代と思われまして、築城は恐らく円心の三男・則祐でしょう。

    ただし、現在残っている縄張は、16世紀の戦国時代後半のものと思われます。二つの尾根を中心に、帯曲輪跡や石積み・土塁・堀切・井戸の跡などが見られます。採集された瓦や備前焼などの遺物の特徴から、時代を戦国期と特定できます。加えて、瓦や石積みなどには、後の近世城郭につながる特徴をも併せ持っているため、移行期の中世山城として、町内でも数少ない貴重な城跡に位置付けられます。

    さて、遺構が多い戦国時代なのですが、この時期の駒山城の様子が今一つ、はっきりしません。ただし、城主として入ったと思われる人物の名は散見されます。例えば1546年に、安室(やすむろ)五郎義長の家臣の代わりに「長船(おさふね)越中守」と称する者が城主となったという記録をはじめ、その31年後の1577年には、小田・吉田・内海・片島の4氏が駒山城を攻めあぐんだため、苔縄の高見治部(じぶ)なる浪人を頼り、地元の竹万(ちくま)大避神社に祈願して、高見が火を放って落城させたといった話です。

    安室氏や長船越中守については次回、上郡町船坂の大聖寺山城と絡めてお話します。