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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年10月20日(日) 08時30分

    大聖寺山城(上)

    2019年10月15日(火) 放送 / 2019年10月20日(日) 再放送

    上郡町船坂にある大聖寺山城のお話です。この城の別名が「安室(やすむろ)城」と言えば、ピンとくる方がいらっしゃるかと思います。前回取り上げた駒山城の戦国時代は、どうやら短期間で城主が入れ替わっていたようで、その頃、城主になっていた武将に、安室五郎義長がいます。安室城の名は、姫路市東今宿に「今宿城」や「今宿の古城」とも呼ばれる同じ名前の城がありますが、全く別です。

    安室氏は、れっきとした赤松氏一統で、現在、安室神社が鎮座し、近くに駒山城もある上郡町山野里辺りが、かつて安室荘と呼ばれていました。この地に赤松系の武将が住み着き、地名を名乗ったと考えるのが自然でしょう。大聖寺山城は、駒山城から西へ約2.5キロにある関係からすると、白旗城を根城とするネットワークの一翼を担ったものと思われます。

    大聖寺山は海抜258メートル、麓からでも220メートルほどの高さで、その山頂に大聖寺山城があります。城の範囲は東西約70メートル、南北約90メートルで、主郭を含め3段の連郭式に配置されていまして、規模は小さいのですが、畝状竪堀や堀切など戦国末期の山城の形態をよく残しています。

    何より重要なのは、交通の要衝だった城の立地です。南の麓には安室川が東へと流れ、支流の梨ケ原川の上流に沿って中世の山陽道が走っており、船坂峠を越えれば岡山県の備前に至ります。一方、安室川上流北西の山伏峠の先には岡山県北部の美作へと通じる、まさに要に位置していました。

    大聖寺山城に関する記録は結構残っているのですが、ばらばらで、なかなか辻褄が合わないのは、いつもながら歯がゆさを禁じ得ません。まず『赤松家播備作城記』には、「赤松出羽守満貞が初めて城を築いて居城した」と記されています。出羽守満貞とは、円心の次男・貞範の孫です。満貞の父・顕則は、宍粟市山崎町の篠ノ丸城の城主でした。

    また『播磨鑑』には「安室五郎義長が城主として居住し、赤穂郡の13カ所と備前和気郡内を合わせて領し、1431年5月2日に没した」とあります。興味深いのは、城主の安室五郎義長とは「赤松筑前守入道世貞(せいてい)の孫で、満貞の子」と書いている点です。聞き慣れない赤松世貞とは、円心の次男・貞範のことだと言います。

    大聖寺山城の築城者と初代城主は一体、誰なのでしょう。『播備作城記』は円心の次男・貞範の孫・赤松満貞とする一方、『播磨鑑』では、その満貞の子が「安室五郎義長」を名乗ったとして、1代の違いがあり、悩ましい限りですね。