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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年11月3日(日) 08時30分

    別名城

    2019年10月29日(火) 放送 / 2019年11月3日(日) 再放送

    上郡町にある別名(べつみょう)城の話です。前回まで2回にわたって取り上げた、上郡町船坂の大聖寺山城から見れば、安室川を隔てた南西約1.5キロの山頂に位置しています。海抜203メートルの井ノ山の頂にあるため「井ノ山城」とも言います。

    この辺りは備前と国境を接している関係で、先の大聖寺山城でも見られたように、備前から東の播磨へと進出をたくらむ宇喜多氏が足掛かりとした所です。はつきりした事実は不明ながら、おなじみの『赤松家播備作城記』によると、16世紀前半、1532年から55年に至る天文(てんぶん)年間に、別名河内守なる者が居城とし、後に花房助太夫が城主となりましたが、1573年から92年に至る天正年間には廃城となったとしています。

    またまた、なじみの無い武将の名が出てきました。別名河内守とは何者かは全く分かりません。一般的には赤松一族の者が土着して地名を名乗ったと考えられるのですが、土地柄からすれば、宇喜多氏の家臣かもしれません。

    では、別名河内守の後、城主になった、もう一人の花房助太夫はどうでしょうか。この近辺で花房氏と言えば、遅くとも16世紀初頭には岡山県北東部の美作国に土着した一族で、ルーツは、清和源氏・足利氏一族の上野氏の祖の子・花房職通(もとみち)の系統ともされますが、確たる裏付けはありません。

    宇喜多氏の家臣だった花房職勝(もとかつ)あたりから系譜がたどれまして、その息子・職秀は武勇に優れており、1567年、宇喜多氏に従って出陣以来、各地に従軍し、1569年には、備中国を巡って毛利元就の四男・穂井田(ほいだ)元清と戦いました。翌1570年からは、美作国、現在の津山市に荒神山城を築いて宇喜多氏の拠点とします。1577年以降は赤松氏や浦上氏と戦い、1579年に主君・宇喜多直家の命で現在の岡山県美作市の三星(みつぼし)城を落城させています。

    西播磨の山城では、別名城のほか、佐用町上月の円光寺山砦の主に「花房助兵衛尉」の名が見えます。別名城の花房助太夫と併せた2人の花房氏が、宇喜多氏の家臣である花房氏とどう結びつくのかは、はっきりしません。時期的には、別名河内守の後に別名城主となった花房助太夫が、荒神山城を築いて、宇喜多直家の覚えもめでたかった花房職秀と重なっても大きな矛盾はなさそうです。

    面白いことに、花房職秀は長じて1595年、宇喜多秀家に対して、駒山城主を務めた長船氏一族を重用するよういさめて、殺されそうになったりしています。