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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年1月19日(日) 08時30分

    鴾ケ堂城

    2020年1月14日(火) 放送 / 2020年1月19日(日) 再放送

    赤穂市有年横尾にある鴾ケ堂(つきがどう)城です。蛇行する千種川の東、その支流に当たる矢野川の南に位置する海抜196メートルの三重山(みかさやま)の頂にあります。「鴾」とは何とも難しい漢字です。片仮名の「ム」の下に動物の「牛」を置き、その右に「鳥」と書いて「ツキ」と読みますが、新潟県佐渡島などで飼育されている、鳥の「トキ」の古い呼び名です。

    鴾ケ堂と名乗るからには、かつてこの辺りにトキが生息していた証しでしょう。前回取り上げた赤穂市東有年の鍋子城とその北に位置する八幡山城は、共に大鷹山城の別名があり、紛らわしいと言いましたが、こちらの鴾ケ堂城は小鷹山城とも呼ばれます。

    鴾ケ堂城の築城時期は不明ながら、築城者として太田または小田弾正なる武将の名が伝わります。太田氏あるいは小田氏とは何者でしょうか。一説に「赤松則景が太田氏を称したことに始まる」とする話は素直には理解できません。赤松一族で則景と言えば、初めて赤松氏を名乗った家範の父しか思い浮かびません。その則景は宇野氏を称した可能性はありますが、赤松氏を名乗るのは息子の代からですので、この人物が太田氏の祖である可能性は低いように思われます。

    伝承では、赤松家範の父・則景は、源頼朝の下で手柄によって佐用荘の地頭となり、頼朝が征夷大将軍となった1192年、佐用町横坂に長谷高山城を築いたとされます。則景の末の息子・家範が千種川下流の上郡町赤松に移り、ここで赤松姓を名乗るわけです。

    赤松家範の父・則景が太田入道従五位播磨守と称して太田家を創立し、鴾ケ堂城を築城したと言うのです。『播州赤穂郡志』には、太田氏の祖・弾正の晩年にも触れ、鴾ケ堂城から北東へ2キロほどに位置する牟礼(むれ)という所に住み、隠居を機に築いたのが佐用の長谷高山城としています。しかし、鴾ケ堂城と長谷高山城との間は直線距離で20キロ余りも離れているため「隠居所とするには遠過ぎる」とも指摘されます。

    時代が400年近く下った戦国時代、鴾ケ堂城を巡るリアルすぎる戦いの様子が伝わります。ただし、築城者の太田弾正を16世紀の武将とする位置付けには違和感があります。その弾正の息子・治内が赤松秀光の三男・小河秀春と対立し、龍野刑部(ぎょうぶ)なる者と組んだ秀春に夜襲を掛けられました。しかし、東有年に住む三宅与左衛門という者が、敵の背後から攻めてくれた結果、龍野刑部も小河秀春も討ち死にし城は救われました。時に1571年とも77年ともされます。かつてあったとされる「秀春の首塚」はもうありません。