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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年12月6日(日) 08時30分

    『中国行程記』から㉑言挙阜と鼓山

    2020年12月1日(火) 放送 / 2020年12月6日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの21回目です。太子町原かいわいには『播磨国風土記』ゆかりの地名や人物が残ります。一つは「言挙阜(ことあげおか)」です。神功皇后が朝鮮出兵から戻り、皇后に敵対する勢力に兵を向ける日、「わが軍が戦いをすると言挙げ、つまり口に出してはならない」とした訓示から、地名となったと言います。また近くの「鼓山(つづみやま)」は、古代氏族の額田部連伊勢(ぬかたべのむらじいせ)と神人腹太文(みわひとはらのおおふみ)が、この鼓山で争った際、鼓を打ち鳴らして戦った故事からの地名と言いまして、「額田部連伊勢塚」と称する立派な石碑が立っています。

    先に紹介した黒岡神社に見える「黒岡」は『播磨国風土記』にある「言挙」のなまりと考えられています。「黒岡」地区の西北隅には神功皇后と夫である仲哀天皇などを祭神とする「八幡神社」が鎮座し、北西約200メートルに黒岡神社もある立地から、この辺りこそ言挙阜と言えそうです。また「原」は、漢字は違いますが、神人腹太文の名残と考えられまして、原集落内の鼓原大歳神社もあるとなれば、まるごと『播磨国風土記』の世界が生きています。

    塚の近くには、時代が1400年ほども下った江戸中期の1755年に建てられた、「六十六部」を冠することもある「廻国供養塔」が残っています。諸国を遍歴する行者・六十六部に結縁(けちえん)して建立された供養塔です。六十六部廻国巡礼は、法華経を書写して全国66カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する(ぎょう)で、この巡礼者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼びました。特に鎌倉末から室町時代にかけて、行者が金銅製の経筒を経蔵に奉納したり、土中に埋納したりする事例が各地に確認できます。

    こうした廻国巡礼は、近世に入ると少し形を変えて、関西でも信仰を集めていたようです。江戸時代の寺請制度のもとでは原則、庶民の自由な移動は禁止されていましたが、行者は特定の会所に所属すると、ある程度諸国を巡礼できる特権を得ていました。六十六部行者も、京都の仁和寺や空也堂などが元締となって出した免状を得て廻国巡礼を行いました。しかし江戸期は、日本全国ではなく、西国巡礼や国分寺巡拝などへ変化していたと思われます。

    近世に入り、六十六部行者への信仰が盛り上がるのは、世情が安定する18世紀前半以降で、中世のような経筒を奉納する事例は、ほとんど見られなくなり、代わって、行者への結縁を記念する石造供養塔を建立するようになりました。1755年に建てられた太子町の「廻国供養塔」も、まさに時流に乗った結果と言えまして、近世の播磨の巡礼行者信仰の在り方を考える上で、重要な史料です。