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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2021年2月21日(日) 08時30分

    千草城

    2021年2月16日(火) 放送 / 2021年2月21日(日) 再放送

    宍粟市千種町黒土(くろづち)にある千草城は、千草山城とも、城主の名前から石原城とも呼ばれます。地名は、国争いをした神に対して草を敷いて神の座とした敷草が「しくさ」に縮まり「ちくさ」になまったとされます。中心部の千草(まち)は、1600年に姫路藩領となり、15年後には姫路藩が分割されて山崎藩領や幕府領、さらに山形藩や高崎藩、尼崎藩の飛び地領となったりしました。

    千草城は築城年・築城主とも不明ですが、戦国期に長水城主・宇野下総守政頼の家臣の石原勘解由(かげゆ)光時が城主を務めた事実が、わずかに分かっているにすぎず、秀吉の播磨攻めの1580年に落城しました。千草町市街地の南にそびえる半独立状の海抜390メートルの峻険な山頂に築かれており、現在は城宮五社神社が祭られています。すぐ西を千種川本流が南へ流れ、少し北へ上がると、岩野辺川が枝分かれしていて、それぞれの川沿いには街道も走る、交通の要衝です。特に播磨西北部で、西側は岡山県の美作国と接している立地から、千種川に沿う谷筋を把握する重要な地点であることが分かります。

    城郭研究家の藤原孝三氏が2010年に出した冊子『千草山城』には、「戦国時代の『境目の城』として立派な城郭」と位置付け、6つの特徴を記しています。「地区を支配する位置を占める」「山城部分に比べて屋敷部分が大きい」「支配の二重性を示す」「防御手法として『やり過ごし』と『急坂』が使われている」「水を大切にしている」「城のある山はマサ土で崩れやすい」と詳しく観察しています。

    さらに同年発刊の『塩田城』の編集後記で、宇野氏が支配した宍粟市内に残る各山城の役割を、分かりやすく現在の機関に置き換えています。山崎町門前の篠ノ丸城は「市役所」として中心に位置し、長水城は「警察署」、塩田城は「交番」で、この千草城は「駐在所+市民局」と見事に言い得ています。付近の千種川流域では、栗尾・石原山・別所の3つの山城も千草城と連携していました。

    千草城主で唯一名前が分かる石原光時は秀吉軍に攻略された際、長水城主・宇野祐清と父・政頼らと行動を共にし、千種川に行く手を阻まれて自刃しました。その千種町千草字大森の地には、江戸初期に瑠璃寺院主だった、政頼の末っ子・真賢や旧家臣らが建立した供養塔があり、重臣12人と「女房二人」の文字が刻まれた板碑(いたび)に石原勘解由の名もあります。