仁位山城と早瀬城
2021年3月9日(火) 放送 / 2021年3月14日(日) 再放送
佐用町の仁位にある仁位山城と早瀬の早瀬城が位置する辺りは、西播磨でも西寄りで、備前や美作の旧国境が近いため、戦国末期には西の毛利軍、東の信長・秀吉軍が領域を奪い合った所です。特に赤松一族の「播磨衆」が各地に山城を築いて割拠していました。具体的には、西の佐用川、東の千種川とその支流に沿って多くの山城がネットワークを形成していました。佐用川沿いには上月城から北へ仁位山・早瀬・福原・高山・利神の城が上流に位置し、千種川沿岸には、飯の山城から北東へ櫛田・高倉・熊見・徳久の山城が連なり、支流の志文川や本郷川沿いにも徳平・天神山・大内谷の城が控えていました。
海抜233メートルにある仁位山城は、佐用川を挟んで上月城と対峙する位置にあり、毛利氏の陣城となったり、後に秀吉方の付け城となったりして、上月城の枝城でもあった高倉山城と共に、まさに上月合戦で東西両勢力によるせめぎ合いの渦中にありました。仁位山城は、無線中継施設の林道終点手前の約200メートル付近の南斜面に、40本近い畝状竪堀群がありますが、これを分断する形で林道が通されたため、輪切り状の断面が見えます。
中継施設から西に延びる尾根筋には、曲輪が3カ所あり、主郭と思われる真ん中の曲輪には櫓台が、西の曲輪へは土塁線も残ります。中央曲輪の北側斜面には畝状竪堀群の上部が横堀を連結する細工が施され、虎口も組み合わせる辺りは、佐用郡内には見られない巧みな防備と言えますが、片や堀切群上部にあるべき土塁や切岸などの対策が不十分なのは、拙速が尊ばれる陣城だったとすれば、仕方ないかもしれません。そんないきさつから「仁位の陣山」の別名もあります。
ただ畝状竪堀群は、毛利軍が播磨侵攻の天王山とした上月城攻めの際に築いたのか、秀吉軍が上月城の付け城とした際の改修なのかは説が分かれます。秀吉は1577年、播磨に入り福原城を攻略し、落城させた高倉山城に本陣を構え、1万5000の軍勢で、毛利方の赤松義村の次男・政元と息子・政範父子が篭城する上月城を包囲した際の付け城の一つが仁位山城です。『赤松家播備作城記』では、信長の家臣・安藤(安東)信濃守が800騎を率いてここに陣を敷いたとします。佐用川を挟み仁位山城の北約1キロの早瀬城は、赤松政元の息子で、上月城主・政範の弟・政直が城主でしたが、早瀬城も上月城と運命を共にし、後に尼子十勇士の1人・寺本生死之助が入ったともされ、1578年、毛利勢により落城しました。