尼子一族
2019年12月31日(火) 放送 / 2020年1月5日(日) 再放送
赤穂市坂越町下高野にある尼子山城を取り上げたついでに、尼子一族について整理しておきましょう。まず名前の読み方で「あまこ」か「あまご」か、つまり「濁りの有無」は見解が分かれます。この放送では多くの歴史書に従い、濁らない「あまこ」に統一しましたが、発祥の地、滋賀県甲良町の大字地名の発音は「あまご」と濁る事実を付け加えておきます。
その尼子氏は、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家に位置付けられます。室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、今の滋賀県甲良町尼子に移り、尼子氏を名乗ったのが始まりですが、塩冶(えんや)高貞の遺児である「玄貞が尼子氏の初代」とする異説もあります。塩冶高貞は、鎌倉時代後期から南北朝期にかけての出雲の守護で、後醍醐天皇の挙兵に呼応して建武の新政に入った後、天皇に反旗を翻し、足利尊氏に味方して南朝方制圧に力を振るった人物です。この流れは赤松円心と同じです。
ルーツに説は分かれるものの、尼子高久の子のうち、嫡男の詮久は近江の所領を受け継ぎ、近江尼子氏となります。一方、次男の持久は、出雲守護の京極氏を支える守護代となり、ここに出雲尼子氏が始まります。後に下剋上の世となると、現地で支配を固める守護代がやがて守護を寄せ付けず、守護大名への道を進みます。
出雲尼子氏3代目の経久もそんな1人で、出雲守護で主君の京極政経を追放しました。しかし尼子経久の嫡男・政久が、味方の矢に当たってしまい、26歳の若さで悲運の死を遂げます。政久の跡を継いだのが、その嫡男で経久の孫、まだ幼い晴久でした。この晴久こそ中国地方旧8カ国の守護となった名君で、余勢を駆って播磨にも攻め込み、尼子氏最大の勢力図を築きました。たつの市新宮町の城山城や赤穂市坂越町の尼子山城などは、尼子晴久が播磨に進出した証しです。
晴久が亡くなり、嫡男・義久の代になると、尼子氏は急速に衰えます。毛利元就に出雲の月山富田城を包囲され、1581年、降伏に追い込まれて尼子本家は滅びましたが、義久の養子の系統が旧名の佐々木氏を名乗り、毛利家に仕えて江戸から明治へと命脈をつなぎました。
播磨で忘れてならないのは、佐用町の上月城の攻防で、山中鹿介とともに尼子氏再興に燃えた尼子勝久でしょう。出雲尼子氏3代目・経久の次男で、若くして戦死した政久の弟・国久の孫に当たります。出家していた勝久が鹿介らに担がれ、京都の東福寺を出て出雲に挙兵しましたが、毛利氏に敗れ、一時、上月城を守ったものの1578年、再び毛利軍に負け、こちらの尼子氏も滅びました。